~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
田舎の一弁護士
久しぶりに東京で裁判があり、弁護士会館に寄ったら、「司法アクセス学会」の案内というチラシが置いてあった。学術大会のテーマは「司法アクセスと『ことば』」。副題として「『ことば』の障壁を考える」とあった。
「司法アクセス学会」という学会があるのをはじめて知った。「司法アクセス」とは何のことか、「司法」と「アクセス」が並んで何かを始めるのか。司法がアクセスとやらに何かをしかけるのか、アクセスが司法に何かをしかけるのか。
「『ことば』の障壁を考える」という案内文は次のとおりだ。「近年の法的ニーズの研究は、人々が抱える問題の多面性を明らかにし、それらの早期解決を目指している。その一方、財政的制約の中で、ニーズのすべてに弁護士による従来型の代理援助で対応することには限界があるとして、裁判外の手続きや本人訴訟への支援の充実のもとで問題解決を支援していこうとする動きがある。こうした状況の中で、人々がその抱える問題の内容と対策を正確に理解し、司法的にも『納得』という点からも妥当な解決を得ていくためには、司法における『ことば』の障壁が解決される必要がある」。
何度も読み返したが、頭をかかえてしまった。「ことばの障壁を乗り越えようとする人たちの文章」とはとても思えなかったからだ。
さて、シンポジウムのテーマは、「裁判における『ことば』の障壁を探る」だ。「裁判における『ことば』」と言えば、裁判員裁判で専門用語をどうするかという問題が一時盛んに論議されたのを思い起こす。コーディネーターは高崎経済大学の大河原眞美教授とある。どんな方なんだろう。会員控え室のパソコンで調べてみた。「法と言語学会」の会長で「司法アクセス学会」の理事。日弁連の「裁判員制度実施本部法廷用語日常化に関するプロジェクトチーム」の外部学識委員もしている学者らしい。
この案内文も大河原先生が目を通してできたものなのだろうか。私の関心は先生たちの裁判員制度へのアプローチの仕方に向かった。ネットによれば、この先生は「裁判員時代の法廷用語」という本の執筆プロジェクトチームの一人にもなっており、「やさしく読み解く裁判員のための法廷用語ハンドブック」という本の執筆者にも名前を連ねている。
事務所の若い弁護士が裁判員裁判の弁護人をやって苦労している。勉強しろと言うつもりで弁護士会の地下の本屋で買うことにした。2冊で3200円。帰りの電車の中で「やさしく読み解くハンドブック」を開いてみた。読んで驚いた。どこがやさしいのか。
「未必の故意」の説明は次のとおりだ。「未必の故意の場合、相手が確実に死ぬとはわかっていなくても、もし死ぬなら死んでもかまわないと思っているわけですから、その人の行為には故意があるとして処罰の対象となります。ただし、同じ「故意」でも、確定的故意がある場合と未必の故意の場合とでは非難される程度が異なりますので、未必の故意の場合のほうが確定的故意がある場合よりも、処罰は軽くなるでしょう。」
「未必の故意」と言われて「密室の恋」と勘違いしたという作家の話を昔聞いたことがある。一般の人にはとうていピンと来ない専門用語だろう。人は普通の人であり、法律家ではない。たいていの犯罪はもやもやした気持ちの中でやるものである。無罪放免続出にならないように、しっかり処罰できるようにと当局が理屈を作った。これはそういう取締り当局用語なのだと説明する方がわかりやすいだろう。
「ハンドブック」には、「伝聞法則」とはだれかが法廷の外で話したことは証拠にできないという規則を言うとあり、「弾劾証拠」とはある証拠が必ずしも信用できないことを示すための証拠だとある。これがどうして「専門用語をやさしく読み解いた」ことになるのか。
私の結論は、法律専門用語の言葉そのものを平易に解説する本をいくら読んだり説明したりしても、結局市民たちは、裁判官たちの論議を追いかけるのがせいぜいで、一緒に考えて行くことなどとうていできないということである。そして、どうして普通の市民がこのような専門用語を知らなければいけないのかという根本的な疑問に突き当たる。
事務所に戻った私は、「司法アクセス」って何のことかわかるかと事務員に聞いた。彼女はにっこり笑って頭を横に振った。
投稿:2013年11月25日