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死刑判決に関わった裁判員たちを解剖する

東京 大学非常勤講師

資産家夫婦強盗殺害事件で東京地裁は被告人に死刑を言い渡した。考える2
この事件に関わった裁判員や補充裁判員の対応や感慨を考える。

事件は、スイスに住んでいるファンドマネジャー夫妻(夫51歳、妻48歳)が2012年11月に一時帰国して12月に東京銀座のマンションから失踪、2か月後の13年1月に埼玉県久喜市に埋められていた2人の遺体が発見され、ひも様の物による窒息死と判断。逮捕された44歳の男性が、5月、強盗殺人・死体遺棄で起訴された。公訴事実は、睡眠薬を飲ませて殺害し金品を奪ったというもの。被告人は、死体遺棄は認めたが首を絞めたのは別の人物と主張して公訴事実を否認。弁護人は別の人物と一緒に脅そうとしただけで、被告人の刑事責任は傷害致死にとどまると主張した。

今年8月19日の第1回公判から9月19日の判決公判まで公判回数は計14回。検察は死刑を求刑。評議は9日間。田辺三保子裁判長は「別の人物が夫妻の首にかけたロープを引いている間に死んだという被告人の主張は不自然極まる。被告人は信用できない弁解をくりかえし、真剣な反省が感じられない。あらかじめ遺棄場所を確保した計画的犯行であり、被告人には被害者のすすめで買った株で損失を被ったことによる恨み妬みがあったと考えられるが、それは量刑で酌むべき事情にはならない。裁判官・裁判員一同の見解」として死刑を言い渡した。弁護側即日控訴。プリント

メディアの報道では事実関係の詳細や判決内容の詳細はよくわからない。考えたいのは、裁判員や補充裁判員たちの反応である(以下、「補充裁判員」を補充員と呼ぶ。裁判員と補充員をまとめて裁判員たちと言うこともある)。彼らの言葉は今回メディアに紹介された以上に今後開示されることはないだろうということもある。裁判員たちの言動を検証することは、裁判員裁判が陥っている限界的窮状、とりわけ死刑求刑裁判に直面させられた裁判員たちの現状を知る貴重な手かがりになろう。

通算32日、公判14回、評議9日というのは、裁判員裁判としては長期間の裁判に属する。出頭拒絶者が多くなることを予測して候補者の呼び出し人数も多くしたはずだ。普通は2人程度にする補充員を4人も選んだのも、公判中や評議中に解任事件が発生することを裁判所が予測した結果であることは疑いの余地がない。

裁判員たちの反応を比較的詳細に報道したのは『読売新聞』(9.20)である。『朝日新聞』(同日)は裁判員たちの反応に僅か11行しか割かなかったが、『読売』は裁判員たちの記者会見での発言内容をテーマ別に表にまでして紹介した。『朝日』はそもそもこの判決に関する扱いの姿勢が全然違い、記事総量が『読売』の3分の1程度しかなく、見出しも小さく少ない。『読売』に基づいて整理を試みる。076525

裁判所は、裁判員裁判の判決言渡し後の共同記者会見にはできるだけ出てほしいと裁判員たちに強く要請している。最高裁の「裁判員裁判実施状況の検証報告書」(2012年12月)は「『貴重な体験であった』というアンケート回答が95%を超えている」と手放しで嬉しがっている。その生々しい充実感を判決直後に国民に伝える機会が共同記者会見だ。マスコミもその言葉を国民に知らせようと待機している。ここで多くの裁判員たちが、それぞれの言葉で裁判員裁判の意義を語ってほしい。そうでないとアンケート結果はインチキくさいと言われかねない。

だが、この事件の共同記者会見に出席した人たちは、裁判員がたった2人、補充員も2人と、なんとも寂しいものであった。裁判員は3分の2が会見出席を断った。最悪の出頭情勢下でも裁判所に来てくれる人たちは、裁判所にとっては感謝しきれぬほどの国策協力者である(実際、感謝状を出している裁判所もある)。しかし、その彼らの過半が判決言渡しが終わったらさっさと帰ってしまった。この人たちは今後世の中に現れて裁判員裁判の語り部になるなどということは絶対にない。その心づもりがあれば、記者会見をすっぽかすことはしないだろうから。「最強の協力者たち」の実情も、裁判員たちの心をつかめぬ裁判所の窮状も、こうして隠すすべもなく見えてしまう。080865021

僅かな出席者の発言は次のようなものだった。

□ 裁判員1番(60代男性、会社員)
殺人事件のことが生活の中に深く入り込み、1人の男性の人生を左右するという考えが常にあった。週末などに自宅で(死刑の是非などを)考えない時はなかった。変な判断はできないという重圧があり、自分を律する気持ちが芽生えた。1人の男性の人生を左右することに今回取り組んでみて、(死刑の判断は)やるべきだと考えた。(遺体写真は)イ
ラストでイメージをつかめたが、(写真を見て)もっとリアリティーをつかみたいというのが率直な意見。

□ 裁判員5番(20代男性、会社員)
法律で人を死なす、死刑にするというのは非常に重大。量刑の判断の日が近づくにつれ、素人の裁判員が決められるのかという重圧が大きくなった。本当に死刑でいいのかというプレッシャーがあったが、裁判官が声をかけてケアしてくれた。(死刑判断は)これしかないだろうと考えて結論は出たが、個人的には(裁判員裁判の対象から)外していいと思う。本当に反省するのであれば、真実を語るのが大事だと思う。

□ 補充員2番(30代女性、会社員)
写真があっても良かったが、見てしまったら、自分の意見を左右したかもしれない。(法廷で被告人が遺族に土下座したのを見て)反省、謝罪の気持ちがあるのだと感じた一方で、果たして本当なのかという思いもあった。

□ 補充員4番(40代男性、理容師)
(死刑判断に加わったことについて)違う視点や観点から(評議で)話せて、意義があった。(死刑事件を対象とすることに)問題ない。0808640

裁判員たちはもっといろいろ話したのかもしれない。話さないところに重大な問題が潜むことが多いので、実際に話した内容のすべてを知りたいところだが、ここでそのことを言っても仕方がない。これが話のすべてであるとして分析を進める。

裁判員1番
死刑を受け入れる素直な国策協力者である。だが、その彼も死刑事件に関わることの深刻さをリアルに語る。「自分を律する気持ち」とは、「放縦な行動や判断はこの際許されないという思い」のことだとすれば、それはあまりにも当然だろう。人を殺害するのかしないのかという瀬戸際の問題に直面させられたのだから。

彼らはひたすら「歯を食いしばって必死に耐える」国民である。国が苦しいのだからと窮乏生活も耐え忍ぶ国民や出征兵士を日の丸の小旗で送る人々を連想させる。その彼も写真を避けイラストで済ませるやり方のおかしさに触れた。殺し殺される戦場をイラストで描かれてはたまらないと訴えているのだろう。

裁判員5番
国民が死刑を判断することに疑問を懐いている。田辺裁判長は死刑判決に国民が関わることを裁判員たちにどのように説明したのか。若い彼はその疑問を評議の中で裁判官にぶつけたのか、ぶつけなかったのか。ここでこのような感想を吐露しているということは、14回の公判と9日間の評議を通して裁判官たちは彼を納得させる答えを出せなかったことを意味する。

裁判官が声をかけてケアしてくれたことに触れる子羊の従順さ。「結論はみんなで出す。1人で責任を感じる必要はない」というのがこういう時の常套句らしいが、それは彼の心を癒す言葉になったか。市民の意見だの市民の感覚だのという言葉のなんという空疎さ。080863011

「本当に反省するのなら真実を語るのが大事」と彼は言う。「真実を語る」責任が被告人にあり、語らぬのは悪質・悪性を推定する根拠になるという考え方にそれは近い。しかし、そのような思想は刑事訴訟の世界には基本的にない。

「死刑判断に疑問をもち、かつ近代刑事訴訟の思想を理解できていない」人によって被告人は「殺される」ことになった。

ところで、補充員1番は判決公判までいたけれど会見出席は断ったのか、それとも裁判員の解任があって裁判員に「昇格」したのでいなくなったのか。何の報道もないのでわからない。公判に詰めている記者たちには法壇の顔ぶれの変化でわかるはずだが、裁判員の異動に関する記事はない。

補充員2番
「写真を見たら自分の意見を左右したかもしれない」という言葉の意味は理解しにくい。写真の強烈な印象がなかったので死刑に賛成しなかったということか。でも、裁判長は全員一致の死刑だったように言っている(これは評議の秘密を漏らしたことにならないか)。

謝罪の気持ちが本当にあるのか、土下座はその場のパフォーマンスなのか。じっくり時間をかけて聞かなければそれはわからない。小さなたとえを言えば、私たちの日常生活の中でのちょっとした行き違いで他人に詫びる時でさえ、その心情には複雑なものがあることが多い。0808650

殺人であれ傷害致死であれ、自分が関わって他人を死なせてしまったとなれば、その謝罪の心情は腰を据えて耳を傾ける心と時間の余裕が絶対に必要だ。判決によれば、被告人は手数料をだまし取られたと言っているらしい。そのように言う(思っている)被告人の謝罪の難しさも考えなければならない。「果たして本当なのか」という疑問に対して、「本当とはどのようなことを言うのですか」と返したい。

補充員4番
「違う考え方を評議の場で交わせて有意義だった」「死刑事件に裁判員が関わることはよいことだ」。このような感想を聞くと、出頭する裁判員候補者の平均像はどんどんこういう人たちに収斂しているとつくづく思う。

評決に加わる資格のないそれも4番手でも最後までベンチで勤め上げ、記者会見にもわざわざ出席するという気合いの入れようである。だが、このような経験はいったい何に関して、また何に際して「有意義」なのか。死刑判断に加わったことがこれからの自身の理容師としての生き方に何か役立つのか。家庭生活にどう役立つというのか。

最高裁や法務省をあわてさせるような重罰志向者たちとこのような発言をする人たちはおそらく大きく重なる。僅かに残った人たちによって支えられている裁判員制度は最高裁や法務省や日弁連が臨んだ形態のものでは決してなかったはずだ。

むすびに
死刑事件に参加した裁判員たちの言動や感想を新聞報道に基づいて考察してみた。そこに広がる情景は、裁判員裁判が国民の中に入り込めていないことを示すどころか、国民から拒絶され孤立の度合いをどんどん深めていることを示す徴表の山々である。最高裁が裁判員制度の実施状況を検証した「検証報告書」は、制度の深刻な現実をまったく報告していない。そのことはこの1死刑事件の共同記者会見の模様からもうかがい知ることができる

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投稿:2014年9月22日