~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
今から説明するよ。
福島地裁が裁判員を体験して外傷性ストレス障害が発生したことを認める判決を言い渡したのが9月末。その直後、東京地裁は、10月末に始まる予定の裁判員裁判を前に、検察が求めた被害者遺体のイラストの証拠調べを認めず、検察の異議申し立ても却下したんだ。
インコさんが話をする前に事件経過を説明しましょうね。
39歳の男性が64歳の母親の背中を殴るなどして死亡させ、傷害致死の責任を問われた。彼は介護疲れのストレスが理由だと弁明していた。当時、入退院を繰り返していた母親はかなり痩せていたらしい。検察は遺体写真の証拠調べに裁判所から難色を示され、それではと遺体のイラストを提出しようとして、これも裁判所に拒絶されたのよ。
被告人は犯行について争っていなかった。イラスト提出の目的は、犯行の凄惨さや被告人の残虐性を立証することにあったのだろう。被告人の残忍さを印象づけたいという検察のもくろみが裁判所に打ち破られたというだけのことなら単純な話だが、問題はそんなに簡単なことではなかった。
裁判所がイラストを採用しなかったのは「イラストでも裁判員の負担は大きい」という理由だったの(10月21日『読売』) 。でも、「負担を小さくしなければいけない」というのは、「負担を小さくしても構わない」ということを当然の前提にするわね。
「裁判員の負担の大小」と「真実発見の必要性の高低」を天秤にかけ、負担を減らすことを上に置いたことになる。真実発見がおろそかになっても良いとまでは言われていないが、リクツとしてはそういうことにならざるを得ない。
別の言い方をすれば、「裁判員裁判における真実とは、裁判員に過度の負担がかからない証拠によって発見される真実」と言っていることにもなるわね。
ここで、一言言っておきたい。警察が被害者の遺体を撮影したのは、どこに暴行の痕跡がありどこにはないとか、加害者の暴行に対抗する体力が乏しかったことを示すというような客観的な判断資料を残すためだ。それ以外に目的はない。
加害者が犯行を自白していてもいなくても、客観的な材料を揃えておくのは警察の基本的な仕事だ。
その写真を、後になって検察が「事件の凄惨さ」とか「被告人の残虐さ」とかの情状立証に使おうと考え出したとすれば、まっそのように見て間違いないと思うが、それは一種の「目的外使用」と言うべきだろう。
裁判長が「ちょっとそれはやり過ぎでしょ」とか「それでは裁判員に予断を与えることになるでしょ」と考えたことは十分予想できる。
問題は、そうならそうと言えばよいものを、裁判長が「イラストでも裁判員の負担は大きい」という言い方をしたこと。この事件では、写真だのイラストだので証明しなければならない問題は特になかったのに、裁判員の負担の大きさの問題をわざわざ持ち出してしてしまったことだ。
「裁判員の負担」問題が裁判官たちの頭を占領していたせいでしょう。また、こういう言い方をすれば、検察官も抵抗しにくいだろうという読みもあったでしょうね。
でも、裁判長のこの言い方は、「立証には裁判員の負担を考えるべし」という議論の扉を開けてしまった。そこのところを押さえた上で、「裁判員に過度の負担がかからない証拠」とは何かの話に入ろう。
確か、証拠の採否がいちばん論議されるのは「写真証拠」だったかと。
そう、だからここでは捜査資料としての写真を中心に考えることにする。
捜査に写真が登場したのは外国では1800年代かららしい。我が国では、銭形の親分も大岡越前もカメラは使っていなかった…と思う。だいたい写真機は20世紀に入るまでは一般人には手の届かない超高級の精密機械装置だった。近代戦での軍事利用の流れに乗って広く使われるようになり、事件現場に持ち込んでパチパチ撮りまくる「必須の捜査ツール」になったのは第2次大戦後のことだ。
現場の再現は、「刑事の手描きの絵図」によっていた。それが次第に「フィルム写真」に変わり、カメラやレンズの性能が向上して、撮影写真もレベルの低いものから精度の高い写真になり、仕上がりもモノクロからカラーに進んだ。そして今やデジタル真っ盛り。「動画」もフィルムからデジタルに変わった。捜査現場の視覚資料も時代によって大きく変わっている。
捜査に貫かれてきた考え方は言うまでもなく常に「よりリアルに」だった。「手描き絵図」より「写真」が、それも「カラー写真」が、それも「動画」が「よりリアルに」事実を再現できる。だからどんどん再現性のよいものにとって代わられてきたのだ。全国の都道府県警の鑑識担当部局に「写真係」が設けられたのもその流れの中のことだ。
写真こそ真実に肉薄する決定的な手法ってわけ。犯罪事実そのものも犯罪周辺の事実も写真を通して明らかにされるし、事実を争うのも写真の解釈を批判する形で行われる。再審請求事件で写真解析論が登場しないケースは珍しいくらい。
とりわけ無罪を争う事案では、写真が存在しなければ覆したくてもそのきっかけがないケースが多い。無罪を争わない情状事件だったらイラストでもいいのかと言えば、そんなことはない。イラストで被害者の痩せ方をリアルに描くことは本当に可能か。残虐さを意図的に強調することにはならないか。
何も疑うことなく「よりリアルに」と突き進んできた「刑事捜査の科学化」が、裁判員裁判の登場で、突如、「裁判に関わる人々にあまり負担をかけない限度での科学化」という絞りをかけられることになった。それは刑事捜査の歴史にかつてなかった制約。どんな刑事訴訟法の教科書にも載っていない新基準だ。
裁判員裁判の世界では、もう「カラー写真」から「モノクロ写真」への撤退が始まっているわ。イラストつまり「手描き絵図」への移行も現実になってきた。それは刑事捜査と刑事裁判の世界の「視覚証拠の決定的な退行現象」と言うべきでしょうね。
これからの裁判員裁判は、犯罪の成立に争いのない事件では、情状の良し悪しを判断するのに刺激的な証拠をどんどん排除してしてよいことにし、争いがある事件では刺激に耐えられない気弱な裁判員を事前に徹底的に排除してゆくことになるだろう。
その判決は「刺激の少ない証拠によれば次のように認定することができる」とか、「心臓が強い裁判員によれば次のように認定することができる」なんていう内容になるってことね。
でも、「真実発見よりも負担軽減を上に置く」考え方が裁判所の中で大手を振って歩くということは、刑事裁判の自殺宣言以外のなにものでもないです。
そのとおりだ。福島ストレス訴訟は、裁判員裁判の現場に絶体絶命の大穴を開けた。刑事裁判を「まがいもの裁判」に変え、「社会から平均的に集めた人たちによって行われる常識裁判」とされていた裁判員裁判を「一定の傾向を持つ人たちによって行われる特異な裁判」にしてしまった。
まがいもの裁判、つまり「裁判のようなもの」になっていく訳ですね。
へえい、できますものは、民事、家事、一般刑事、重罪事件は裁判のようなもの、お後がよろしいようで。
投稿:2014年12月14日