~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
10回に分けてお送りした猪野亨弁護士の講演はいかがでしたでしょうか。連載直後から反響が大きく、感想やご意見などを多くいただいております。その中でも、一番多かったのが、「質疑応答も掲載して欲しい」というご要望でした。これにお応えし、報告集の質疑応答を掲載いたします。なお、質問は、若干、インコが整理しております。
また、ご希望の方には、ご連絡をいただければ報告集をお送りいたします。
猪野亨弁護士ウェブ連続講座
「マスコミが伝えない裁判員制度の真相」質疑応答
遅れて来たので、お話しに出たかもしれないのですが、公判前整理手続きでは、裁判員がいないので、いろいろなことができるのでしょうか。
猪野:私も公判前整理手続きを経験していないので、直接、お答えできる立場にはないのですが。
公判前整理手続きは、基本的に何をやるかというと、審理計画なんです。
建前としては、調書の中身を見ないとか、そういうことになっているはずで、証人尋問の中で何をやるかとかを決める。
だけど、どういった主張をやるかという争点を明らかにしていくために、どんどん、時間ばかりが掛かっていくので、そこには、裁判員はいらないということになっている訳です。裁判員を呼ぶのは、最後の仕上げとしての法廷での審理です。
審理の前の段階ということで、裁判員は関わらなくても、というより、そこに関わったら全部、裁判員が拘束されることになるんで、裁判員制度なんて成り立たないと。また、公判前整理手続きというのは、裁判員制度を実現するために、公判廷での審理を短くするために入れたということになっているので、建前としては、実質審理は行われてはいないということにはなっているんです。ですが、本来、それ自体が非公開というのもおかしいことですし、何をやっているのかは分かるべきものだと思います。ただ、裁判員が入っても、多分、見てるだけということにはなるでしょう。
その法廷の前段階では、弁護側の主張というのは、出せるんですか。
もちろん、出せるんです。弁護側として何を主張し、何を立証したいということは、全部、その場で決めちゃうんです。
まあ、前倒しして全部やっちゃおうという、そういうことですね。
今日は、良いお話しをありがとうございました。以前、裁判として処理する件数が減っていると聞いた事があるのですが、その状況はどうなんでしょうか。
当初、裁判員裁判対象事件は、年間3千件と言われていたようですが、今は2千件程度だそうです。だから、思ったより事件がなかったようです。ですから、裁判員制度が成り立っているというか、裁判員をやりたくないという人が増えても、取り敢えず、維持できている。
刑事事件自体が減っています。凶悪事件も増えているようで増えてない訳で。センセーショナルに大きく報道するから、あたかも増えているように感じるだけですから、裁判員裁判も減っています。
事件件数も減っているけれど、裁判員制度が導入される前より、導入後の方が処理能力も減っているように聞いた気がするんですが。
イメージするところは、刑事事件そのものが減っているので、裁判員裁判も減っている。その中で、処理能力がどうなのかということなのですが。以前ですと、千葉の事件がすごく増えちゃったんで、東京高裁から応援に行くというような遣り繰りまでやっていたんですが、そこまで必要なくなってきてるんじゃないかな。
あのー裁判所、暇ですよ、結構(笑)。以前と比べて事件数が極端に減っていて、裁判官も多少、増員されているところもあって、その代わり、予算の都合があるんで書記官減らしちゃってるんですけどね。
ただ、裁判所の問題よりもね、検察庁とか鑑定医だとか、別の所にしわ寄せさせちゃっているんで、そっちの忙しさは倍みたいですよ。裁判員裁判が始まったことで。
これまでも思っていたことなんですが、裁判員になりたい人というのは、かなり特定化されるというか、「自分が裁いてやる」というか、上から「こういうのは、裁いてやらなければいけないんだ」という意識が強い人間が裁判員になっていくと思うのですが、そういった裁判員経験者の人たちのグループはあるんですか。
あります。俳優が覚せい剤を使用して保護責任者遺棄致死の罪に問われたときの裁判員である田口真義さんという人が、「元裁判員だ」と本も出されて、全国行脚もされている。この人が中心となって、元裁判員のグループを作っています。
その人たちは、まさに裁判員制度宣伝のために、すごい努力されていますよね。その人たちは「私たちには、裁いた責任がある」みたいなことを言っていますので、まさに「自分たちが」という発想そのものかなという感想は抱きました。
あと、それだけではなく、「連絡先を知りたい」と。裁判員として同じグループで裁いた人たちの連絡先を知りたいんだと、裁判所に申し入れたり、なんて言うんでしょうね。連帯感というんでしょうか、自分たちが選ばれた人間という発想を強く感じます。「自分たちは、違うんだ」というようにね、違和感を感じた次第です。
当初は、裁判員になりたくない人までもやらされて、PTSDになっちゃたり、秘密を一生持ち続けなきゃならないとか、真面目に捉えている人たちが、苦しんで病気にまでなって追い詰められてきた。それが、今、残ってきている連中(笑)と言いますか、語弊があるかもしれないが、ファシスト的なものを持った部分が突出してきているのかなと思うのですが。
私も同じようなイメージを抱くんです。
ただ、やっている人たちが、「自分は、ファシストの先兵だ」なんてそんな思いは全くないと(笑)思うんですけど。
しかし、現実に、国家機関の中に取り込まれる形で、自分たちみんなでやっていきましょう、みたいな機運が高められていったとき、果たしてどうなのか。
一昨年、私たちは、京都大学名誉教授の池田浩士先生をお招きして、「ナチスの手口、ボランティア活動に伴うファシズム化」という題名で、講演をお願いして勉強をしました。その中で、やはり問題になったのは、「自分たちが」ということで、みんなでやりましょう、という機運を作り上げる。
最初はボランティアから始まった奉仕的なものから、全体主義、ナチス国家が誕生していく。そういうものと、裁判員制度というものは、どうしても重なると思います。
やはり、「自分たちが」と、統治機構の中に組み込まれていくことを無批判にやっていくことはどういうことなのか、裁判員制度でも問われてしかるべきだし、むしろ、それが司法制度改革審議会の意見書に書かれた「公共的精神を持て」というものと同じではないかと思う訳です。
それが、やってみて、失敗した、という状況だとは思います。だれもそんなことで、立ち上がろうとしなかった。一部の人たちが、そういうところで旗を振っているけれども、全体のところまではいかない。いかせないということが大事だったのかなと。
そういう意味では、この裁判員制度というのは、失敗だと思っています。日本国民全員に「公共精神を植え付ける」という初期の目的というか、真実の狙い、目的自体は失敗した。今、戦争法案が出てきて、国家のために、どう動員していくかというところと、本当は重なってくるのかなと思っていますが。裁判員制度の運動にどこまで持ち込むかはありますが、根っこは一緒かなと思っています。
恥ずかしくて言えないような数字(笑)(男性の声「痛いところ、突くね」笑)。
あのー、例えば札幌で、裁判員制度反対運動やっている弁護士が何人いるかと言えば、「名前、貸してね」って言えば、何人か貸してくれる友だちくらいいますけれど、あのーひょっとすると一人かも知れないという。さみしい。あのー、福岡どうなんでしょう(笑)。
なんで、そんなに弁護士さん少ないんですかね。当事者として危機感をもっと。
いやー、弁護士にとっては当事者じゃないんです。裁判員裁判に関わる弁護士って、件数自体も減っちゃっているということともあるし、少数なんです。
弁護士の人口問題は、自分たちの生活に直結するけれど、裁判員裁判はまったく関係ない。そういう意味では、弁護士の中には無関心が多いのかなというのが、率直なところで情けないというところです。
こういう状況だからああいうもの(「おかしいぞ!日弁連、弁護士は権力と手をつなぐな」)を許すんです(笑)。そういう執行部が誕生する訳です。
裁判員制度が始まる前に、刑事裁判官と話をしたとき、
「お前、反対か」と聞かれ、「反対です」と。
「お前、裁判官を信用してくれているのか」(笑)
「いやー、そういう訳じゃないんですけど」(笑)
「まあ、俺も官僚だからやるしかないんだ」(笑)
「やれって、言われたらさ」(笑)
まあ、その裁判官はちょっと特殊な人かも知れないですが(笑)
民事の裁判官とは話をしていると、
「いやだね、あの制度。刑事の裁判官じゃなくて良かった」と。
やはり、ない方が楽に決まっていますよね。
だから、裁判員制度がなくなるとき、刑事裁判官が反対するかといったら、内心ホッとするはず。ただ、やれと言われたものは官僚ですから、実績をと言われると頑張ってやるんでしょうね。それが、宮仕えの宿命ですよね。プライドというよりは、やれといわれたものはやると。
元裁判官で反対している人たちはいる訳です。その人たちはまさにプライドです。「国民なんかに踏み入れさせるな」と、そんな感じですね。だから、あの人たちの反対は、私たちの反対とは方向性が逆で(笑)。保守的な立場から、国民なんか入れるなですね。
基準は、最初から法律で決まっていて、一括りで言うと、重大事件。人の生命を侵害したようなものと、あるいは、法定刑にそのようなものが含まれているものと決まっているんです、対象が。なぜ、そんなものから始めたかというと、国民の関心が高いものというだけなんです。だから、結構、しんどい事件ばかり。
先ほど、凶悪な事件数が減っていると仰っていましたが、国民には余り伝わっていないですよね。それをもう少しアピールしてもらうと、あっ、話がずれちゃうかもしれないですが。
少年事件もそうなんですけど、事件数自体は減っていると。ただ、それだけで少年法改悪反対が説得力を持つかというと、もうそういう時代ではなくなってきている。
少年事件にしても凶悪事件とされている事件にしても、「私たちが理解し難いようなものが増えてきた」ということです。そういった視点から、これにどう対処するのと言ったときに、今のマスコミやら保守層は、厳罰化でともかく治安維持を回復するんだ、というところに行き着いちゃうんです。
でも、私たちが理解できないものが、なぜ、生まれたのか、という発想には、まったく行かない。そういった視点から、私たちの運動も再構成して取り組んでいかないと、ただ事件数は減っているというだけで、正面突破ができるかというと、それはもう難しい。
こういった理解できない犯罪がなぜ生まれてくるのか、社会的情勢がどうなのか、私たちがそういったものを生み出していないのか、そういった視点から訴えかけ、社会の問題点と絡めて、対応していかない限り、多くの国民の支持は得られないかなと。そこが突破できれば、そういったところも変えられる。
もっとも恐ろしい顛末と言うか、この制度を続けることで何が起きるんですか。
裁判員制度のそもそもの目的は、司法基盤の強化ということが言われていました。結局、どんな重罰化であったとしても、それは国民の声だということで正当化しようというのがこの制度だったんです。
ところが、ここで頓挫しちゃった訳なんです。いきなり、ドーンと上がっちゃったもんだから、これは拙いと是正しちゃった。当面、重罰化に行くのは鈍化していくとは思うのです急ブレーキかけちゃったもんですから。
これが徐々に重罰化にいっていたら、思惑通りになっていたんだろうなと。そうなっていないという意味では阻止された。
あと、動員の問題です。マスコミからは、当初、「拒否が多い、過料の制裁をなぜ科さない」という論調が出ていたんです。それも鳴りを潜めた。これで過料なんか加えたら国民の反発が目に見えて起きるだろうということが、想定されたからですね。
ところが、25%まで来ちゃったら、さて、どうするか。また、マスコミの中から出始めました。「制裁を科せ」と。
「出て来る国民と、出て来ない国民の不平等をこのまま放置していいのか」という論調がまた、ちらほらと出ています。安保法制と一緒ですよね。国民をどこまで動員していくのか。
こういう拒否を許さないという。例えば、自民党の憲法改正草案を見ると、義務のオンパレードですよね。義務と責任でもって雁字搦め。ああいったものと、これが重なり合ってくると、国民の義務としての布石になりかねない。
憲法改正が遠い先、遠い先と思っちゃいけないですね、これがどこまで近づいているか、考えなければいけないのですが。裁判員制度が実施されている中で、具体的に国民を動員する方向で、舵を切ったときに、これがどうなっていくのか。日本国民は大人しいから、どんどん、従っていくことになっちゃうのか、一気に不満が爆発して廃止に行くのか、分かれ目です。そのときに、私たちが、どこまで運動を広げてきたかとリンクしてくるのかなと思います。
天神での宣伝を聞いて参加した。ファシズム的なとか、裁判の反動化とか言われているけれど、私の個人的な見方では、絶対的なものは存在しないので。この問題では、妥協の余地はないですかね。
裁判員制度についてなら、私たちの運動で妥協の余地はないと思っています。これが改善で済むかといったら、そうはならない。
例えば、被告人に選択権を与えたら良いという議論があります。しかし、被告人に選択権を与えても、国民の義務として呼び出して、権力に組み込んでいくという裁判員制度の本質は変わらないということになれば、妥協の余地はないと。
制度の目的を見据えて、権力と手をむすばない、そういった観点からやっていくべきです。
投稿:2016年2月6日