~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
愛知県 一弁護士
『朝日』の4月22日号に「『死刑は殺人』元裁判員苦悩」「執行 いまも信じたくない」という4段抜き大見出し、大判姿写真入りの記事が掲載されました。裁判員として死刑判決に加わったあなたの思いを中心にした記事です。
あなたの連絡先がわからないことのほか、私の感想を多くの皆さんがどのように受け止められるかを知りたい気持ちもあり、この欄をお借りしてあなたにお伝えいたします。ご返事をいただければ幸いです。
あなたが関わった裁判員裁判は、川崎市でアパートの大家さんたち3人を刺殺したとして2011年6月に横浜地裁で死刑判決が言い渡された事件です。被告人は判決から4年半後の昨年12月、死刑が執行されました。裁判員死刑判決の初めての執行です。今回の新聞記事はこの事件に関わったあなたが「苦悩」したという話でした。
私は強い衝撃を受けました。あなたの「苦悩」の深刻さのためではなく、浅薄さの故にです。はじめにお願いしておきますが、記事があなたの「苦悩」を正しく表現していないのなら(そうであることを祈ります)、ご指摘下さい。
以下、引用部分は少し段を下げ、「」をつけて示しました。
「死刑がひとごとではなくなってしまった。一般市民が人の命を奪う判決に関わるのはきつい」
あなたにとっては判決(または執行)の瞬間まで、「死刑はひとごとだった」のでしょうか。私はこの記事について何人かの一般の方と話しましたが、異口同音にこの「死刑がひとごとではなくなった」に強い違和感の言葉が出ました。
「死刑制度の是非を自分の問題として考えるようになった」という趣旨なのでしょうが、死刑判決を言い渡してから死刑制度を考え始めるのではなく、そのような事件には関わることを要求された時、あるいは拒絶した時から「死刑がひとごとではなくなる」ものだと皆さんは言いました。あなたはひどく鈍感な人だというのです。
「判決は遺族感情や被告の生い立ちを十分に考慮した結果。自分のやったことを反省し、真摯に刑を受けてもらいたい」。(自分は)判決後の会見でそう話した。
「十分に考慮したので真摯に刑を受けてもらいたい」とは「考え尽くしあなたを殺すことにした。まじめにひたむきに死になさい」ということです。あなたはあなたと同じ市民に躊躇なく死ねと言えた。しかもあなたのその感想は、判決直後の高揚・興奮の所産ではなかったらしい。
「翌月、本人が控訴を取り下げ、判決が確定。『悩んで出した結果を受け入れてくれた』と感じて、ほっとした」
判決から月が変わってもその確信に変化がなかったとご自身がおっしゃっています。「悩んで出した結果」だそうですが、あなたは、公判・評議・評決の中で何を悩んだのでしょう。守秘義務が邪魔をして言えないのならはっきりそう言うべきでしょう。あなたは悩みの内容を何一つ語っていない。
公判初日から物が食べられなくなり、吐き、眠れず、ついには急性ストレス障害になった方がいます。その方は国を相手取って損害賠償請求の訴訟まで起こされました。私は、「まじめに死ぬ」ことを決意して自ら控訴を取り下げたことで「ほっとした」あなたに、本当に苦しむ裁判員とは真反対の「普通でない人」を感じます。
「まもなくして、裁判員の経験を話した親しい友人にこう問われた。『人を殺したのか?』 胸を突かれた。考えてもいないことだった。死刑は誰かが実行する『最も重い刑』という認識で、間接的にでも自分がかかわって『人を殺す』という意識はまるでなかった」
驚きました。言うまでもなく死刑は官許の殺人です。法によって処罰されないだけでその実体は明白に犯罪です(懲役刑や禁固刑を言い渡すのも官許の犯罪監禁です)。あなたにはその質問が「胸を突かれるほど衝撃的なこと、考えてもいなかったこと」だったそうです。そのような意識でよく裁判所に出かけられたものです。
私は、あなたの友人に「普通の人」を感じ、あなたに「普通でない人」を感じます(付け加えますが、あなたはこの事件で被告人に死刑を言い渡すことに賛成したと私は理解しています。明記されていないだけで、あなたはそのことを前提として説明していると読めます)。
あなたの疑問は友人のあなたに対する問いかけに始まったということです。
「『本当によかったのだろうか』。振り払っても振り払っても疑問がわき上がった。つらかった。心にふたをし、忘れようとした」
たいそうな反省譚です。でも、うそくさい。「振り払う」というのは、審理していた当時のご自身の見方が正しかったと思い直すことでしょうか。「わき上がる疑問」の中身は何ですか。友人から問われるまで、あなたのあたまの中にはかけらほども存在せず、一方友人の問いかけ以降振り払っても振り払ってもわき上がるようになったという疑問とはいったい何か。その中身が私には(おそらく誰にも)まったくわかりません。
「心にふたをし、忘れたくなった」ほどのあなたの疑問の中身を言葉で言ってみてください。友人の問いかけは裁判からそれほど経過していない時期のことでしたね。判決から昨年12月の死刑執行まで4年半です。その間に起きたらしいあなたの心の大転換が私には全然理解できません。このことについては後で触れます。
「『死刑は、法という盾に守られた殺人行為に変わりはない』。我がこととして悩み、苦しむうちに、今は死刑反対の気持ちが強くなった」
そうですか。ひとごとが我がことになるのにずいぶん時間がかかったようですが、またなぜ変わったのかもよくわからないが、とにかく変わった。しかし、その行き着いた結論は裁判員制度反対ではなく「死刑反対の気持ち」だったと言う。人を裁くことはよいが死刑はいけないのですか(あなたは懲役や禁固は犯罪にならないと思っているのではないでしょうね)。あなたの問題意識が裁判員制度反対に向かわない理由を私は推測できます。そのことも後に述べます。
「僕らが要請しているのに執行していることに憤りを感じる。裁判員裁判による死刑判決がバタバタと執行されてゆくのではないか」と危機感を抱く。
今度は「憤り」ですか。あなた方が要請すれば執行は止まるというほど死刑問題が簡単でないことはあなたでもわかるでしょう。「裁判員裁判による死刑判決がバタバタと執行されてゆく」ことを懸念するのなら、裁判員制度をまず止めさせたいと考えるのが普通でしょう。死刑が言い渡される事件のほとんどは裁判員裁判です。
あなた自身、「一般市民が人の命を奪う判決に関わるのはきつい」とおっしゃっているではないですか。二つのことをともに追求すると言わないところにあなたのインチキがある。
しかもあなた方がやっているのは「死刑に関する情報公開や暫定的な執行停止」に過ぎない。つまり、あなたは裁判員制度反対ではなく、死刑制度反対でもない。「危機感をもって」ぬえのような行動をしているということです。
「声を上げる必要があると、今回、実名で取材に応じた。『立ち止まって考えてほしい』『もう二度と裁判員はしたくない』」
あなたはとうに実名を公表し写真も出して取材を受けている。裁判員裁判のプロパガンダ本『裁判員のあたまの中』(現代人文社。13年11月刊)では裁判員経験者として登場し、よくもこれだけしゃべるなと思うほどしゃべりまくっています。大『朝日』には初登場というだけです。
あなたは「立ち止まった皆さん」に何を考えてほしいのですか。死刑を市民に言い渡させることの是非か。では懲役や禁固ならいいのか。あなたが二度とやりたくないのはすべての裁判員裁判ではなく、死刑裁判事件の裁判員だけなのか。
あなたはどこからどこまでいい加減です。でたらめと言ってもよい。物を深く考えない、あるいは深く考えることができない人です。『裁判員のあたまの中』からあなたの発言を紹介します。ここがさきほど後で言うと言ったところです。原文は延々たるおしゃべりですが、ポイントだけ拾います。
「何でもやってみたいと思って行った」
「父もやりたかったみたい(笑)」
「自分の番号が出て『当たっちゃったよ!』と」
「裁判長の提案で全員が自分の趣味を話した」
「みんなに『何で辞退しなかったの』と聞かれ、『やってみたいと思った』と答えた」
「父には『何で選ばれるんだ。何でおまえなんだ』と完全に嫉妬(笑)」
「『あんたにできるの?』と母に言われた瞬間、心に火がついた。『やってやろうじゃないか! やりきってやる!』」
「初入廷は気持ちがよかった」
「死刑求刑時は『やっぱりか』と」
「評決の時は達成感があった」
「(判決後)父親からは大変なことをしたなと言われた(笑)」
「間接的とはいえ人を殺すのは重い判断だ。でも後悔はしていない。参加してよかった」。
これがこの本であなたが吐露する心境のポイントらしきものです。この本が出版された13年11月頃と言えばあなたは「振り払っても振り払っても疑問がわき上がった。つらかった。心にふたをし、忘れようとした」。そういう時期だったのではないかと思われますが、この話しぶりは脳天気の極みで、到底そのようなお悩みは想像できません。
『朝日』よりはるかに率直で、悪びれてもいない。やりたくてしょうがなかった裁判員裁判をやれてよかったよかったと笑いながら自慢げに言っている人、はっきり言わせてもらうと、失礼ながら少し知恵の足りない薄っぺらなお調子者を思い浮かべます。
あなたは、裁判員制度に納得していない訳でもなく、死刑制度に正面から反対を言っている訳でもない。つまり何でもない。そういうあなたがメディアに露出しようと思った動機は何でしょうか。あなたは誰かにそそのかされてひょいひょい動き回っているだけですか。
『裁判員のあたまの中』の編著者は、裁判員裁判に裁判員として参加し、爾来この制度の宣伝に一役買っている人物です。この本の「はじめに」でも、裁判員の体験を公にすることは裁判員制度にも法曹界にも有益のはずだと言っています。これほどみんなに嫌われている裁判員制度について、市民の関心を何とか制度に引きつけたいと「孤軍奮闘」しています。死刑廃止運動などにも顔を出したりしているとも聞きます。「裁判員制度推進は社是・死刑制度については方針あいまい」の『朝日』に米澤氏を登場させたのは誰なのか、考えさせられます。
米澤さん。私の指摘や推測に間違いや誤解があるのならそのことをぜひご指摘下さい。誤解の解消は私の望むところです。
草々
追伸 大久保真紀 様
さて、この記事はあなたの署名入り記事です。大久保さんにも一言だけ申し上げておきたい。あなたは米澤さんの見識のどこに惹かれたのでしょうか。あなたはこの方のどこに本物を感じたのですか。ヒューマンストーリーは『朝日』の売りの1つですが、あなたは米澤氏の話にヒューマンなものを感じてこの記事をまとめたのしょうか。そうだとしたら記者としてお粗末です。あなたは『裁判員のあたまの中』をもちろんお読みになっていると思いますが、その内容に疑問を持たなかったのでしょうか。
私はあなたの文章の鋭さを以前から注目してきました。普通なら一歩引いてしまうところでもめげず切り込む、対象に深く入り込み問題を大胆にえぐり出す。批判を受けてもひるまない反骨精神と人を深く観察する姿勢があなたの真骨頂だと思っていました。しかし、今度のあなたの文章ばかりはまったく納得できません。
あなたはこれまで裁判員裁判についてあまり取材も勉強もしてこなかったのではないでしょうか。今回の記事はそのことを推測させます。裁判員制度を批判する書籍文献はたくさんあります。推進する立場からの出版物もあります。あなたはガイダンス本『裁判員をたのしもう!』をお読みになりましたか。
『裁判員のあたまの中』と同じ出版社から出ている本です。この本は米澤さんのように楽しみながら裁判員をやってみようと思う市民を増やそうという狙いで作られたものでした。「楽しみながら刑事裁判に関わる」という考え方を大久保さんはどのようにお感じになりますか。
裁判員制度は、『朝日』を先頭とするマスコミの全面支援にもかかわらず国民の支持をほとんど失い、いまや風前の灯です。『朝日』の編集委員として大久保さんにはもう少し勉強をしてほしい。ご研鑽とご自愛をお祈りします。
投稿:2016年5月14日