~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
溜まってた新聞の山の中に、『日経』よりも10日ほど前に裁判員制度を論じた『朝日』の社説があるのを発見した。7月20日号だ。
おっと今度は前振りなしの直球ですね。
新しい新聞が上に積まれていたので、『朝日』の紹介が『日経』より後になった。『朝日』をテーマにするのを後に回したわけではない。
『日経』と差を付けたと言われるのは心外なので、今回も全文をご紹介する。タイトルをみてごらん。さすがは『朝日』だ。
タイトルがすべてを決めると言ってもよい。このタイトルは「暴力団の組幹部が裁判員を威圧した。だが動揺することなく裁判員制度の崇高な意義をもう一度確認して前へ進もう」ということだ。さぁ、また議論してみようじゃないか。
「裁判員を威圧」とありますが、威圧したことは確定している事実でしょうか。
裁判所から出てきた裁判員たちに2人の男が「よろしくね」なんて声をかけたっていうことでした。
「裁判員たちは不安を感じたと言っている」という報道もある。だが、声をかけたとされる男たちが脅したと認めているという報道はみてないな。
対立するかもしれないこと、確定的な結論が出てないことについては慎重な態度をとるのがメディアに求められる基本的な姿勢ではないかと。
少なくとも威圧に?をつけるとか、「」をつけるくらいの配慮はすべきでしょうね。
ヒヨコ君に脇が甘いといわれては大『朝日』の面目は立たんな。いい加減さがこんなところにも表れているというのは確かだ。
(ほほ、なんかこの子はこのところずいぶん成長してきたような。)
内容に入ろう。「声かけの後、参加を辞退する裁判員が相次ぎ、職業裁判官だけで審理をやり直すことになった。ゆゆしい事態である」ときた。ゆゆしいとはどういうことだ。
広辞苑によれば、ゆゆしいは由々しい。「神聖なので触れてはならない、忌まわしい、うとましい、気がかりである、恐ろしいほど優れている、容易でない、すばらしい、勇ましい」などと説明されています。
いろんな意味がある言葉だが、そうするといったいそのどれなんだ。話の筋から言って優れているとかすばらしいとか勇ましいということではなさそうだな。触れてはならないも忌まわしいもうとましいもちょっと違うだろう。
そんなところだな。だが、「市民参加命(いのち)」の『朝日』はどうしてこんなところで市民生活でほとんど使わない小難しい言葉を急に使うんだ。ヒヨコ君だって昨日の試験の結果はゆゆしいなんて言わんだろう。
「気がかりな事態である」と言えばいいだけなのに、難しそうにひびく言葉を使って飾ってみたかったんでしょ。
小賢しい。で、何がゆゆしいのだ。声かけか、相次ぐ辞退か、それとも審理のやり直しか。
続いて「最初から裁判官裁判にしておけばよかったという声もあるがそれは違う」と言っているところからすると、ゆゆしいのは裁判官裁判に切り換えたことではないですか。
裁判員法は裁判員裁判の対象事件も例外的に裁判官だけでやることを認めている。だがそれは例外中の例外でめったなことでは裁判官裁判にしてはいけないはずだと社説は言っている。
ということは、この事件の公判は、声かけがあっても裁判員の辞退が相次いでも断固裁判員裁判で押し通すべきだったのに、小倉支部がころり裁判官裁判に変えてしまったのはけしからんと言っているんでしょうか。
はっきりしないが、そうではなく、裁判員裁判は本来はやはり裁判員裁判として進行させ、裁判員の安全には万全の対策を講じるべきだったという一般論を言ってるようだな。
この事件の公判について言えば、こんな状態になってしまったら裁判員裁判を通すのはもうムリです。殺人未遂の裁判員裁判が開かれるので裁判所に来てくれという通知が小倉支部から来たら、誰だって「あの事件だ!」って気づきます。喜んで出て行く裁判員候補者はたまたま選ばれた組関係の人たちだけでしょう。
社説は、「『無理して裁判員裁判をやる必要はない』という方向に流れてしまっては私たち社会全体が理念を放棄し、無法に屈することになりかねない」と言っている。
大風呂敷を広げましたね。「主権者として司法権の行使にかかわり、ふつうの感覚を裁判に反映させる」のが市民の司法参加の意義だとして、その理念を社会全体が放棄してしまっていいのか、それも暴力団の無法の前にひざまずいてしまっていいのかと来ました。
国民の85%がもうその理念を投げ捨てたいと言っているということを『朝日』の論説委員は完全に無視している。見て見ぬふりだ。
「無法に屈する」って言うけれど、国民の圧倒的多数が処罰の威嚇をものともせず、不出頭を断行していますよね。国はもう国民の無法に屈してるんと違いまっか。
突然の関西弁はやめなさい。ただし、私たちの社会全体がもう裁判員制度の理念なんとやらをしっかり放棄していて、この国の司法権力は国民の無法総反乱にあえなく屈しているというヒヨコ君の見方は極めて正確だ。
私もひと言。社説は「国民と直接結びつくことによって司法の基盤を強固にし、行政や立法をチェックする権能を高める」と言ってますが、裁判員制度にはそんな目的があったんでしたっけ。
それこそ、『朝日』のでっち上げだ。いや、革新政党や日弁連もそれと似たようなことをいっているから、ねつ造は彼ら全体の連帯責任だがね。
「国民と直接結びつくことによって司法の基盤を強固にする」というのは正しい。もっともそれは、国民を直接裁判に関わらせることでこの国の司法の正統性を多くの国民に知らしめれば、お国の司法は引き続き安泰盤石だと言っている。つまり司法の基盤を強固にするというのはひどく権力的な意味なのだ。
後半の「司法の基盤を強固にし、行政や立法をチェックする権能を高める」はどうですか。
これがとんでもない大うそ。裁判員制度の目的にはそんなことはまったく入っていない。考えてごらん。市民参加で行政や立法をチェックする権能を高めるなんてことを、行政や立法の中心にいる連中が考え出したりするはずがないだろう。政府や国会が自分たちの横暴を国民にチェックしてもらうためにこの制度を導入したなんてどこで議論し、どこにそんなこと書いてあるか言ってみろってことだよ。
どこでも論じられていないことを『朝日』は制度の目的であるかのように言っているということですね。
そう、このねじれでたらめ路線が『朝日』の社是だ。その徹底ぶりは、もう最高裁さえ言わなくなった「おおむね順調」論をこの期に及んでも言い募っているところによく表れている。
危機を正面から論じようという『日経』とはだいぶ姿勢が違いますね。
大違いだ。一番重要なことを言っておこう。もう一度前号『日経』評論は「制度終焉詔勅」の序章かの『日経』大島氏の論考を読み返してごらん。「制度否定派が『ほら見たことか』と持ち出しがちな数字だが、この『不都合な真実』こそ直視すべきだろう。それなくしては裁判員制度の課題は語れない」というくだりがあった。
ありました、ありました。大島さんは、「裁判員制度はいらないインコ」のブログを見てくれているのかなぁと思いました。
しかし、『朝日』の社説は、85%のノンにも触れず、出頭率たった23%にも触れていない。そして、裁判員制度に反対する意見や運動をそれこそ徹底的に無視し、その存在そのものにまったく触れない。世の中に否定意見や反対運動など何もないという風情だ。
多少は紹介していた時期もあったが、制度に対する市民の反応が厳しくなるほど提灯記事が増え、異論排除に徹するようになった。
そういえば思い出しました。『朝日』は昨2015年1月5日に「信頼回復と再生のための行動計画」という立派な計画を発表しています。
その「理念」の内容は次のとおりでした。
1.公正な姿勢で事実に向き合います
事実に基づく公正で正確な報道こそが最大の使命です。社外からの指摘に謙虚に耳を傾け続けます。事前・事後のチェック体制をしっかり構築し、間違いは直ちにただす姿勢を徹底します。
2.多様な言論を尊重します
読者とともにつくる新聞をめざします。多様な価値観や意見を紙面に反映するとともに、朝日新聞の記事や論説に対する異論・反論も幅広く掲載するフォーラム機能を強化します。今まで以上に複眼的な見方を意識した記事を増やします。
3.課題の解決策をともに探ります
よりよい明日をつくっていくために、社会の仕組みや生活に密着したテーマについて幅広く考える情報を提供します。問題点の指摘にとどまらず、みなさまと課題を共有し、多角的な視点でともに解決策を探るメディアへと進化させます。
この一つひとつの理念を裁判員制度にあてはめるとどういうことになるのかこの新聞社に尋ねたいですね。
制度命(いのち)で提灯記事を書く新聞社が、「事実に基づく公正で正確な報道こそが最大の使命」だとか「多様な価値観や意見を紙面に反映させるとともに異論・反論も幅広く掲載する」など、聞いて呆れ読むのも恥ずかしくなる。
こういうのを「計画倒れ」とか「絵に描いた餅」とか言うのでしょう。「ののちゃん」が早朝から勉強して夏休みの宿題は7月中に終わらせるぞと立てた「夏休み勉強計画」みたいなもんかな。
はいはい、「ののちゃん」は無謀な計画は最初から立てないでしょう。それよりも「朝日はどこへいく『不買8割』の危うい現実」なんていうエッセイがどこかの新聞に登場する前に我が姿を鏡に照らして脂汗でも流した方がよさそうですね。
今回は2人ともやたら冴えているな。お疲れ様と言ってあげよう。私がインコのお山を長期不在にするのは意外によいことかも知れん。
投稿:2016年8月16日