~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
織田信夫先生(仙台弁護士会)著作の「裁判員制度廃止論」(花伝社 1,600円)である。
著者は、元日弁連副会長、東北弁連会長の経歴を有する弁護士であり、現在は、「裁判員制度はいらない!大運動」の呼びかけ人となっているほか、裁判員員経験者の国賠訴訟の代理人を受任しておられる(「裁判員経験者による国賠訴訟の提起について」参照)。
本書は、これまで著者が、「法律新聞」や「司法ウオッチ」に投稿してきた論文を一冊にまとめたものだが、これを読了すれば、裁判員制度の全般的な不当性、特にその違憲性(先般の最高裁の合憲判決の問題点)が論証しつくされているとわかる。また、諸外国の制度の実情との比較や最新の学者・実務家の意見も多数批判的に検討されている。
以下、好みが出てしまって恐縮であるが、私が特に「異議なし!」と叫んだセンテンスを紹介する。
「裁判員制度は真実の発見や法令の適正且つ公平な適用を直接の目的とするものではなく、刑事訴訟において、配慮されなければならない被告人の権利を無視している。審議会最終意見は、裁判員制度は個々の被告人のためというよりは国民一般にとって或いは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入するものだから、被告人に裁判員制度の選択権がないというけれども、刑事裁判は本来被疑者、被告人の基本的人権擁護のための手続きであり、それが被告人の利益より国民教育・意識改革優先だというのはまさに本末転倒であろう。」
「日弁連が、前述のように裁判員制度にしがみついて行こうとする姿は、この政府、知事、会社の社長と同列、つまり制度制定者・権力者側にいることを示す。しかし、日弁連、弁護士というものは、そもそもそのような立場に立って良いのであろうか。基本的人権の擁護、社会正義を実現することを使命とする弁護士の団体は、この綻びを最初から抱えている、いまだに多くの国民の支持の得られていない制度に対し、制度制定者とは明確に距離を置いて、一般市民、上記アマチュアの立場で、主体的に「英知」を生かす知的生命体として明確にものを言い、舵を切りなおす責任があるのではあるまいか。」
「人間にとって、自分の欲しないことを無理矢理させられるほど嫌なことはあるまい。それは飲めない酒を無理に飲まされるようなもの、高所恐怖症のものを崖の上に立たせるようなものである。長時間法廷に釘づけにされ、聞きたくもない話に付き合わされ、見たくないものを見せられ、果ては人を刑務所に送り込んだり、絞首刑を命じさせられたりすることが苦役でなくてなんであろうか。裁判は、裁く者にとっても裁かれるものにとっても本来は苦役の場である。裁判官は裁くことに苦しみや痛みを感じないのであろうか。これが参政権の行使と同じだという感覚は、到底理解できないものである。」
本書の終章「3.11後の不安の中で」では、次のようにある。ちなみに著者は、戦時中、福島第1原発のある現在の福島県大熊町に疎開し、終戦を迎えたという。
「今回の震災、福島第1原発の事故から我々は何を知ったでしょうか。それは政府も電力会社もマスコミも真実を報道しないで国民を騙してきたということです。」「私は『原子力村』という言葉を知ったのはこの事故のあとです。裁判員制度についても、その広報について、やらせ、さくら、パブ記事など国民の目を欺くことが行われてきたことが伝えられました。我々は、これからはやはり眼光紙背に徹する眼力を持ち、この騙しの行為を暴きそして監視していかなければなりません。その監視力こそ民主主義成熟度のバロメータだと思います。そして批判し、行動すること、そのことを震災・事故から学ばなければならないと思います。」
若手弁護士、特に裁判員裁判の現場で呻吟する若手弁護士に是非一読を進めたくなる書物である。
投稿:2013年8月29日