~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
季節は真夏になったが、鸚哥大学の研究室の中はまだ夏休みに入っていないようで…
先輩、先輩。「超えるか超えぬか 最高裁はどこに行く」で、求刑1.5倍の下級審判決を最高裁が見直すっていうことになりましたよね。「『いま、最高裁は語りはじめます』ってか?!」から続いてきた「天城超え」じゃなかった、「求刑超え」見直し判決。とうとう最高裁の判決が出たんですね。
裁判員裁判が始まった翌年の2010年、1歳の娘さんに暴行を加えて死亡させたとして、傷害致死の疑いで両親が逮捕・起訴された事件。30歳の父親が娘さんの頭を叩くなどして死亡させ、実行行為に加わっていない母親も同罪だとされた事件ね。
うん。1審大阪地裁は、「暴行は殺人と傷害致死の境界線に近い」と認定、「虐待事件には今まで以上に厳しい罰を科すことが児童の生命を尊重しようとする社会情勢に適合する」と厳しい理由を付けて、検察官の求刑懲役10年を5割超える懲役15年の判決を言い渡した。実行行為に加わっていない母親も15年だった。
判決後の共同記者会見に臨んだ裁判員が厳しい処断は当然と言い切ったことが注目されたんでしたっけ。
そうそう。そして 両親は控訴したけれど、大阪高裁は地裁の判断を妥当だと言って控訴を棄却。納得しない2人は最高裁に上告して、今回の判決になった。
この事件、両親とも、もともと量刑不当の以前に事実認定そのものに誤認があるとして無罪を主張していたんでしたよね。
そうなんだ。マスコミはほとんどそのことを紹介してないけれど、この事件はもともと無罪が争われた事件だった。量刑の問題は「仮に有罪だとしても刑が重すぎる」っていう、被告人・弁護側とすれば、いわばつけたしの論争だったんだ。しかも、最高裁では父親は自分は暴行を加えていないという主張しかせず、量刑不当は主張もしなかったようだ。
そこって気になります。その点について裁判所はどのような姿勢を取ったんですか。
一審も控訴審も無罪主張を一蹴したね。最高裁ももちろんそうさ。もちろんというのもおかしいがね。
さぁ、裁判員裁判の求刑超えの量刑判断に関する最高裁の判断を説明して下さい。できるだけ裁判員の判断を尊重しろって言っていた最高裁は今度はどう言ったんすか。
いや、この間聞いた言ったばかりっす。裁判員の判断を尊重しなければならない制度推進側の姿勢としては、重い判決を求める裁判員たちの要求を簡単に切り捨てる訳にもいかず、かと言ってなんでもかんでも天の声と持ち上げる訳にもいかないって。
そう。最高裁自身、「よほど不合理でない限り、裁判員裁判の判断を尊重すべし」と言った(2012年)その年のうちに「裁判の結果は総体としてみればこれまでの裁判と極端に異なっているわけでもない」と報告したりしている(裁判員制度実施状況検証報告書)そんなありさまだからね。
国民参加を実現しようとして無理無理言った言葉と、国民動員政策というホンネのはざまで揺れまくってるっていう感じかしら。
最高裁は、5人の裁判官全員一致で、原判決(つまり控訴審判決)と一審判決を破棄した。理由を簡単に言おう。「量刑判断はこれまでの量刑傾向を視野に入れて判断することが大切であり、それは裁判員裁判でも同じこと。裁判員制度の導入でこれまでの傾向が変わることはあり得るが、他の裁判の結果との公平性が保たれていなければならず、評議の出発点はあくまでも過去の量刑傾向」。
「よほど不合理でない限り」って言ったけど、実際には過去の判断が結構硬い基準なんですね。
そう、続けるよ。「判断を変える時は変えるべき事情を具体的、説得的に示さなければならない。本件の一審裁判員裁判は、検察官の求刑を大幅に超える量刑について具体的で説得的な根拠を示しておらず、その量刑判断は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」。
うへーっ。「具体的で説得的でなければならぬ」なんて言われたら、たいていの裁判員は「それ無理です。私、直感派だもん」なんてなるんじゃ…。
「量刑判断は甚だしく不当」とか「破棄しなければ著しく正義に反する」なんて言われたら、「怖い、怖い。結構です、私もうやりません」っていっせいに言い出すかもね。
父親は懲役10年。母親は実行行為に関わっていないとして懲役8年。白木勇裁判長が補足意見を書いている。これも裁判員に極めて厳しい。「量刑は裁判体の直感で決めてはいけない。客観的な合理性が必要」。
あちゃー、裁判体かプリン体か知らんが、裁判員としてはやってられんわ。いくら1万円くらいも貰えたって、甚だしく不当とか著しく正義に反するとか、叱られるために裁判所に行くんじゃ、やってられません。
白木裁判長は、裁判官にも厳しいメッセージを突きつけている。いや、「裁判官にも」なんていう言い方は生ぬるい。この判決は裁判官に対する通告判決とも言うべきものなんだ。「裁判員裁判を担当する裁判官は、量刑の判例や文献を参考に評議の在り方を日頃から研究して考えを深め、個別の事案に即して裁判員に丁寧に説明し、その理解を得る必要がある」ってね。
そうさ、白木裁判長はまだ言う。「同種事案の量刑傾向を考慮に入れることの重要性は裁判員裁判でもまったく同じ。そうしなければ量刑の評議は、合理的な指針のないまま直感による意見の交換になってしまう」「評議の適切な運営は裁判官の重要な職責である」。
わちゃーっ。これって、裁判員裁判の在り方を大きく変えろって言ってるのと同じでは。
それは違う。裁判員裁判はもともと、そうもともとだよ。こういうものとして設計されていたのです。でも国民の関心を引きつけようとして、「国民の視点」だの「あなたの感覚」だのと、とってつけたような飾り言葉を使いまくった。つまりデコレーションさ。
でも、最高裁は、この制度が政府の審議会で確定するまでの間、一貫して国民の判断能力の低さを強調し、仮に判断を言わせることにしても評決権は与えるべきではないなどと言いまくっていた。その最高裁が突然裁判員制度に賛成した。豹変の背景には、裁判官が裁判員を正しく指導することにより、この制度を国民の司法教育の機会に使えるという、まったく新しい発想に急転換したことがある。
直感で判断する国民が多いだろうということは、最高裁ははじめから十分計算していた。そして裁判官が判断能力の乏しい国民を善導するっていうことをはじめから予定していた。「裁判官が3人いるだろ、6人の国民を指導することはできるはずだ」ってね。ここで「指導できる」っていうのは、「指導しなければならぬ」というのとあまり違いがないんだけど。なんてったって、自分たちは三宅坂。現場で苦労するのは兵隊の裁判官たちだからね。
たいへんですよ。でもこれがもともとの姿。少しも驚くようなことじゃござんせん。驚いているのは最高裁のホンネを聞き漏らしてデコレーション言葉を真に受けた人たち。あわてているのはホンネを聞いていたのに聞いていなかったようなふりをしている人たち。
新聞をみると「元裁判員 不満の声」とか、「市民感覚との調和必要」とか、「市民感覚どう生かす」とか、今回の最高裁判決にうろたえ、とまどうマスコミの姿勢がにじみ出ているようね。7月28日の『読売』の社説なんて、あっちも大事、こっちも大事、みんな大事なんて、なに言ってんだかっていう内容でしたよ。
そう言えば、26日の『朝日』には、「裁判員判決の見直しはおかしい」っていう投書(福岡県主婦57歳)が載ってました。「制度に関心があって、勉強会や模擬裁判に何度も参加してきた。幼い娘への両親の傷害致死には重罰が与えられるべき。国民視点を生かすこの制度は何のためにあるのか」。
制度の提灯を担いだマスコミやこの制度で私も一言なんて気張った向きの人たちとしては、そりゃそうだろう。でも本当のことを言うと、おかしな話だけどいちばん困っているのは最高裁と政府だよ。
最高裁や政府は量刑問題で国民がこんなに重罰指向に走るとは思っていなかったんだろうね。国民は暴走してしまった。そりゃ、普通の国民はもう裁判所に容易に近づかない。正確に言えば暴走するような人たちだけが残ってしまった。自分こそが悪者を成敗してやるなんて突っ走る手合いが多くなってしまったんだよ。
ここはやはり手綱を締めないと司法内部が大混乱する。いゃ、もうしっかり混乱しているが。ここは何としても裁判員制度の狙いを現場の裁判官にきちんと伝えざるをえない。先例重視の高裁裁判官たちは冗談じゃないと怒っているし、地裁で裁判員に向かい合っている裁判官たちは彼らに迎合して暴走を押さえられないでいる。恰好なんかつけていられない。
でも、この手綱引き締め策は、確実に裁判員参加の意欲を大きく減殺させる。やりたくなかった人たちはますますやりたくなくなる。これまでやったろかと気負い込んでいた人たちもどうせひっくり返されるなら、もうやらんとなる。インコは、今回の判決で、参加したくない派が5%増え、参加してもよい派が5%減ったと断言する。
あのー、先輩。何%って今おっしゃいましたが、参加したい派はもういくらも残りがないんすが…。
そう、それこそ残り時間が本当になくなってきたということだな。さぁ、どうだった、インコの量刑超え物語の連続3話は。羽をふるって皆さまのご期待を超える分析をしたつもりだが、さてインコの労を労ってお茶にしますか。
投稿:2014年7月28日
弁護士 猪野 亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」7月25日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
最高裁は、大阪地裁の裁判員裁判によって求刑の1.5倍もの懲役刑を科した判決に対し、量刑不当を理由により破棄しました。
最高裁平成26年7月24日判決
幼児を虐待し、その結果、幼児が死亡した事案(但し、暴行と死亡との間の因果関係は争われた)であり、その内容自体は非道そのものといえます。
仮に死亡との間の因果関係がなかったとしても1歳8か月の幼児に暴力を振るうという、とてもではありませんが人としての所業ではありません。
この裁判員裁判を担当した裁判員が何故、傷害致死で殺人ではないのか理解できなかったという感想を述べていますが、この点は私も同感です。
幼児を殴れば死に至る危険性は極めて高い行為であることを考えれば、その行為には客観的には幼児に対する死を招来することを認容している(殺人の故意があるということ)と評価すべきではないかということです。
近時、幼児などを自宅に置き去りにして外出し、餓死させた親に対する刑事責任では、従来であれば保護責任者遺棄致死罪に問われていたものが、死への認容があったということで、殺人罪に問う流れが出てきましたが、それ自体は当然かと思います。
但し、従来の量刑との比較の上で量刑を決めなければ、それはそれで問題があります。
「虐待の結果が「致死」なのか?」
大阪地裁の裁判員裁判は、求刑懲役10年に対し、懲役15年。
そのときの理由が「児童虐待は大きな社会問題で今まで以上に厳しい刑罰を科すべき」というもので、まさに感情的ともいえる理由で求刑を大幅に超える判決となっていました。
まさにこれこそが裁判員裁判の結論というべきでしょう。
しかも、この間、最高裁は一貫して上級審の審理の在り方としては「裁判員裁判の結論の尊重」という姿勢を示していました。その結果、上記大阪地裁裁判員裁判の上級審であった大阪高裁も被告らの側の控訴を棄却していました。
最高裁は、この量刑判断に一定の歯止めを掛けたものとということになります。
「これまでの傾向を変容させる意図を持って量刑を行うことも,裁判員裁判の役割として直ちに否定されるものではない。しかし,そうした量刑判断が公平性の観点からも是認できるものであるためには,従来の量刑の傾向を前提とすべきではない事情の存在について,裁判体の判断が具体的,説得的に判示されるべきである。」
原審裁判員裁判では、この「具体的、説得的に判示」されなかったということで破棄されたのですが、よほど「具体的、説得的に判示」しない限りは大幅な重罰化は是認されない、この結論自体は当たり前のものです。
しかし、他方で、最高裁は裁判員裁判の「裁量」のような幅を認めたということでもあります。
本来、同種の犯罪行為に対する刑罰は平等でなければならないし、個々の裁判官の判断においても追求されてきたことでした。現実にはデコボコが生じていたとしても、それで全く問題なし、当然のことだとしていたわけではなく、できるだけデコボコにならないような姿勢が裁判官にはあったのです。
これは当たり前のことです。あたる裁判官によって量刑がバラバラであれば被告人自身が到底、納得できるものではないし、適正手続き(憲法31条)、法の下の平等(憲法14条1項)の観点からも問題だからです。
最高裁は結局、裁判員裁判によってデコボコが生じるような量刑を是認したということになります。
さらには、理屈上の上では、「具体的、説得的に判示」すれば大幅な量刑超過も是認しうる余地を残したということでもあります。
これが死刑判決になると、もっと大きな問題が生じます。
死刑は究極の刑罰であり、その死刑を選択するにあたっては裁量の余地(本来は無期懲役なのに死刑にすること)などあってはならないのです。
最高裁の判断基準「永山基準」はその意味では死刑制度を前提とする限りは、基準としては当たり前のものです。
ところが、現実の裁判員裁判では、過去の前例などものともせず、永山基準など知ったことじゃないとという感想を述べる裁判員が出てきていることも憂慮すべき事態です。
守秘義務があるからそれ以上はいえないことになりますが、このような感想を述べた裁判員が死刑を選択したことは明らかです。
高裁で死刑判決が破棄され、それが確定した事件もあることを考えると、裁判員の判断は、明らかに暴走しつつあります。
死刑が究極の刑罰であることを考えれば、どの裁判員に当たるかによって死刑か無期かの差が出ることを是認できるはずもないのです。
それでも今回の最高裁判決は理屈上の上では、裁量による死刑を認めることへの布石にもなりうるものです。
現在、死刑か無期かで最高裁の判断待ちの事件(裁判員裁判では死刑、控訴審が破棄し無期懲役判決)が複数、あります。最高裁の姿勢が問われるところです。
さて、この最高裁判決に対し、インターネット上では、非難囂々です。
その視点は、裁判員制度の意義を否定している、だったら裁判員制度など廃止してしまえ、という類のものです。
制度の廃止自体には私も異論がありませんが、その理由は暴論そのものです。
市民感覚といってみたところで、クジでたまたま選ればれたに過ぎない裁判員の「感覚」だけで量刑が決まるようなシステム自体が異常だし、その「感覚」だけの結論でいいんだと言ってしまえること自体が恐ろしいとしか言いようがありません。
これでは人民裁判そのものです。
かつての革命後の中国において、地主などに三角帽子を被せ、「人民」が地主打倒を叫び、処刑していったことと同じ光景にしかなりません。
この被告人は感覚的に悪いやつだから厳罰にしてやれでは、この人民裁判とどこが違うといえるのでしょうか。
現代における法治国家であれば、量刑の引き上げは、立法政策に属するものであって、そこで量刑を審議し、立法政策として行われるべきものです。
自動車事故による厳罰化などは、その一例です。
法治国家日本が、裁判員制度のようなもの(特に量刑判断を素人にさせている点)を実施していること自体、恥と知るべきです。裁判員制度は廃止あるのみです。
投稿:2014年7月26日
なになに、ああ7月11日、『読売新聞』は「裁判員制度 本社全国世論調査」の結果を発表のこと。
そう。6月28、29日に全国の有権者3000人に戸別訪問をして裁判員制度について聴取した(回収率51%)ものですって。
終焉を彩る壮絶なデータを紹介すると。
□ 裁判員制度の仕組みを知っているか。
・知っている54%…10年3月調査より5ポイント下がった
□ 始まってからの印象は。
・裁判の内容が分りやすくなったと思う…20ポイント下がって22%になった
・裁判が身近に感じられるようになったと思う…19ポイント下がって36%になった
・国民の感覚が反映されるようになったと思う…12ポイント下がって39%になった
□ 裁判員として参加したいか。
・参加したい…4ポイント下がって16%になった
・参加したくない…3ポイント上がって79%になった
□ 制度は今後どうすべきか。-これは今回初めて登場した質問
・今のまま続けるべき18%
・見直した上で続けるべき56%
・廃止すべき17%
『読売』さんよありがとう。この調査に対する『読売』自身の評価をインコの鋭く可愛い目で再調査する。この手の報告によく顔を出してしゃべるいつもの学者さんの言説をインコの鋭い大きな声で切って捨てようぞ。
(インコさんは声が大きく爪が鋭いもんね)。これで読者の皆さんは裁判員制度と国民意識の対決状況をしっかり掴めるって訳ね。
『読売』記事の見出しを眺めるとですね。冒頭は「裁判員制度『継続を』74%」そして「『参加したくない』8割」そして「国民感覚の反映を重視」。意味分かりません。
そりゃ分らんだろうね。大半の国民が制度を続けることに賛成し、しかしそれよりも多くの人がやりたくないと言い、それが国民感覚の反映だってんだから、こりゃ分る方がおかしいわい。この調査結果について、インコに聞こえてくるいちばん多い意見は『読売』誤導説だ。
制度を今後どうすべきと思うかって聞くのに、「現状でGO」と「止めちまえ」を並べ、その中間に「見直して行け」を置いたら、たいていの人は真ん中をとる。分っていない人や思い悩む人ほど真ん中だ。回答がそうなるように『読売』が質問を仕組んだっていう見方さ。
「見直して行け」ったって何を見直すのかまったく触れない。制度の仕組みをあまり知らないと言ってる人に聞けば、たいがいはこんな回答になるものよ。誤導説には確かに説得力がある。
だがしかし、だがしかしだ。「現状でGO」論や「見直して行け」論を単に間違いだとか誤導だとか言って否定し去るだけでは、この調査結果を正しく見たことにはならない。
透徹した目で見れば、この調査は私たちに事柄の真実を熱く伝えていることに気がつくはずってことね。
そうです。今や国民の多くがこの国の司法を信用していない。この国の裁判はどうもおかしいと思っている。そのことを「裁判員制度の維持に賛成する」という形で表現しているのだ。それは監視の役目を少しでも果たさせたいという「司法不信の言い換え言葉」さ。現実の制度がそんな機能を果たしていないことは明らかだけどね。
だから、「国民の多くが裁判員になりたくない」と言っていることと「国民の多くがこの制度の維持に賛意を表明している」ということは、矛盾していないどころかしっかりつながっている。
つまりこれまでの裁判への不信感が制度維持への賛意という形をとっているってことですか。
そういうことさ。この国の司法の正統性を国民に教えるなどと言い募る最高裁や法務省の言動に、ほとんどの国民が惑わされていない。騙されていないと言ったほうがより適切だ。最高裁も法務省もおかしいぞ、信用できないぞという批判を「制度の維持」という言葉に込めて突っ返している。だから制度の維持を言いながら自分は裁判員をやりたくないと同時に言うことができる。それだけのこと。
この国の裁判官は長きにわたって無実の者を死刑台に送ってきた。無実の者をたくさん刑務所に送り込んできた。有罪に疑問が出ていた死刑囚に急ぎ死刑を執行することも厭わない。ようやく再審開始決定が出た袴田事件にも今検察は不服申立てをしているし。警察も検察も証拠を隠し、ねつ造し、うそを言う。法務省はそのことを反省するどころか、新しい人権侵害司法の構築に必死になっているだろ。
インコさん、お怒りモードスイッチが入ったようだけど、落ち着いて。
裁判員制度が始まって2年になろうとしたところで3.11が起きた。これまで最高裁を先頭にほとんどの裁判所が原発の稼働を推進する立場に立ち、国の責任を追及する原発周辺の住民に政府代理人の検事が対決して電力会社をかばった。
結果、絶望の司法が国民の眼前に一気に広がった。2億4000万の不信の瞳。
そう、今や深い深い疑惑の視線で国民は裁判員制度を見ているのだ。
うむ、普通の国民の中にこの制度を支持する人はもう暁天の星くらいしかおらんだろうよ。
もちろん。インコの読解の正しさは、どんどん明らかになるね。裁判員制度の仕組みを知っているかと聞いたら、知っていると答えた人が10年3月調査より5ポイント下がって54%になってしまった。知っている人が減るとはどういうことよ。
違う。そんな訳あるか。新聞やテレビが毎月、毎週裁判員裁判を報道しているのに、またどのメディアもしつこいくらい頻繁に裁判員制度の仕組みについて解説を展開しているのに、どうして仕組みを知る人が「減ってしまう」のか。「意外に増えない」のならまだしも、「前には知っていた人たちが時の経過とともに次第に知らない人たちになってゆく」のだから、これはもう現代の七不思議というほかない。
知っていたのに次第に知らない人になってゆくってやはり健忘症…
(無視して)最高裁の調査(14年1~2月実施)には「裁判員制度が実施されていることを知っているか」との問いがあり、これには回答者の98.8%が「知っている」と答えている。『読売』の「制度の仕組みを知っているか」という質問には54%しか「知っている」と答えていない。
つまり、実施していることは知っているが、仕組みは知らないという国民がこれほど多いところに、国民と制度の間の深い溝があるってことね。
そのココロは明らか。多くの人たちがいやになってしまったのだ。知っているかと聞かれても知らないと言いたくなってしまった。知っているかどうかを厳密に言えば、以前よりずっと知るようになった。ただし知った結果、知っていると言いたくなくなった。
今や宣伝すればするほど「仕組みを知らない」人が増えるという悲しくも哀れな構造になっているってことね。
考えてごらん。この4年間、裁判の内容が分りやすくなったと言う人が20ポイントも下がり、裁判が身近に感じられるようになったと言う人が19ポイントも下がり、国民の感覚が裁判に反映されるようになったと言う人が12ポイントも下がったら、それを異常事態と言わずしていったい何を異常と言うかね。
別の面から見ればだ。制度は今後どうすべきかと問われて、今のまま続けるべきだという人が18%しかいない、見直そうという回答を用意しても、誘導されず敢然廃止すべきと回答する人たちが17%もいる。そういうことだよ。
わかってきたじゃないか。『読売』は裁判員制度が真実暗礁に乗り上げていることを最高度のリアルさで説明してくれた。だがしかし、それはそのように読み取るのが正解だというインコの説明を聞いた皆さんがそう思ってくれるという話だ。『読売』自身は記事中でどのような説明をしているのかというと、もうそれはめちゃくちゃ。
えーっと。「国民感覚を反映した裁判員裁判の判決を重視する意見が多数に上るなど、国民の多くが制度に対する前向きな評価を抱いていることが分った」が、「制度開始当初に比べ、裁判員裁判への関心が低下している様子も読み取れる」。
何が「分った」だ。こういうのを現代の大本営発表という。国民が制度に前向きの評価を持っているのならどうして参加意欲がどんどん下がるか、その説明をしなさい。この4年間の国民の離反模様は「関心が低下している」などという甘っちょろい表現が当てはまるものでは全然ない。奈落に落ちるように見放されてきていると言うのが正確な説明だ。
マスコミが必死に制度を宣伝しても、いや宣伝すればするほど国民は離れて行く。守秘義務の緩和をどう思うかと聞かれたら、賛成が35%なのに反対がその1.5倍の53%だった。守秘義務の緩和が支持拡大の鍵だなどと考えている国民は実は少ない。裁判員裁判の対象を広げた方がよいかと問うたところ、今の程度でよいという答えが46%もいた。対象を拡大せよなんて考えている国民も決して多くない。政府・最高裁の提灯を担ぐマスコミや日弁連の思惑を国民は冷たい視線で眺めているだけなのだ。
ここにいそいそと登場するのは、裁判員裁判推進でいつも出てくる(人がいないのねぇ)後藤昭青山学院大学教授。
制度継続を言う人が7割を超えるのに裁判員になりたくない人が79パーセントに上ることを「矛盾した調査結果」と断じたね。やっぱり何もわかっちゃいない。
学者なら「矛盾」の解明をちゃんとしてみなさいよ、後藤クン。「やりたい人がやるのではなく、誰もがやるという制度の根幹がまだ十分に理解されていない」だって、なんのこっちゃ、えらいこっちゃだぜ。「まだ十分に理解されていない」どころか、だんだん理解の程度が下がっている。
それはなぜかというところをちゃんと説明できなければ、大学教授の看板が泣きます。
センセは、国民の参加意識の妨げになっているのが厳格な守秘義務だとのたまう。でもさぁ、その国民の多くが守秘義務を緩和してほしいなんて言っていないって、インコがさっき紹介しただろ。それがこの調査報告なんだよ。この調査報告の合理的な解説はボクにはできませんということか。それではお先真っ暗じゃござんせんか。
投稿:2014年7月23日
名古屋の弁護士
事務所に「法テラスニュースレター」という冊子が送られてきた。
2号とあるが、1号の記憶はない。
2号(2014.7)の「特集」のタイトルは「プロフェッショナルに聞く! 裁判員裁判のフロントライン」。裁判員裁判の弁護人を経験している若手弁護士として、08年に弁護士登録をした趙誠峰という弁護士が登場している。末尾の説明を読むと、法テラスには「裁判員裁判弁護技術研究室」という組織があり、この人はその研究室で主任研究員という肩書きを持っているらしい。この人の報告や意見に私の感想を書き加えてみた。
○裁判の最後に、裁判官と対等に議論できるよう、裁判員を勇気づけたいという想いを込めて「評議では、裁判官に遠慮せず、自分の意見を言ってください」と必ず言うことにしている。
裁判員裁判の現場には基本的に裁判官優位・裁判員劣位の関係がある。このことを忘れていないらしい趙弁護士は、裁判官に負けるなと激励のメッセージを裁判員に送るというのだ。
趙弁護士には、検察官の求刑などどこ吹く風と被告人に重罰を科すよう裁判官に迫る裁判員たちがいる(しかも少なくない)という現実が見えないのだろうか。今やこの制度は有資格者の15%くらいからしか相手にされていない。処罰圧力をはねのけ圧倒的多数の国民が拒絶する中で、いそいそと裁判所に出かけてくる裁判員の問題意識をどれだけ理解しているのか。
裁判員制度が始まるころ、裁判員制度を陪審への一里塚と位置づけて制度応援の旗を振った法律家団体が「私たちはヘンリー・フォンダを捜しています」というキャッチフレーズのリーフレットを各方面に配ったと聞く。思い込みで走る人は制度をとんでもないところにおし進める無自覚のお先棒担ぎになる。地獄への道は善意のレンガで敷き詰められているというが、至言である。
○傷害致死の事件。酔っぱらいの男性にからまれ一旦離れたが、追いかけられコンビニで鉢合わせした。殴りかかられ殴り返したところ男性は後頭部を地面に打ち付けて結局死亡。冒頭陳述の中で、被害者が亡くなったことを「自業自得」と表現することについて、死者への冒涜と裁判員から反感を買うことを危惧したが、白髪蓄髭の相弁護人に語って貰ってやり通した。語る人と語り方で伝わり方が全く異なる口頭主義の醍醐味と感じた。専門家を法廷に呼ぶ際には話してほしい内容をしっかり注文すること、また素人に分りやすく説明できる専門家と日頃から関係を作っておくことを助言する。
「自業自得」と表現するかどうかはそんなに重大なことか。私は強い違和感を持つ。だいたいこの冒頭陳述は書面になって裁判所に提出されたはずだ。審理が控訴審に移っていたら高裁の裁判官たちはこの書面しか見ないことになる。口頭主義の醍醐味とやらはどう引き継がれるのか。法廷の空間に霧と消えるすべての情報は、後に検討の対象にすることが一切できない。そのことを趙弁護士はどう考えているか。
なんと言っても気になるのは、奇妙奇天烈な技術優位の発想だ。技術で裁判員の心を捉えるという思想は裁判員に対する冒涜、侮辱、侮蔑ではないだろうか。こういう物の見方、考え方をする人は、裁判官裁判なら今度は裁判官が受け入れやすい言葉はどういうものかなどという発想に流れて行くように思う。
もう一つ付け加えれば、専門家とのつながりの話だ。指摘のようなことはどんな裁判でもあまりにも当たり前のことだろう。百歩譲って技術を論じることを前提にするとしても、裁判員裁判のフロントラインに立つ自負があるのなら、裁判員裁判に独特の弁護技術を言わなければ意味がない。この冊子は国民の税金で作られていることを忘れられては困る。
○手作りパネルでも良いから、写真や図表を視覚的に見せよう。パワーポイントは関心がモニター画面に集中してしまうので要注意。正当防衛の主張は、被害者を主役にした病気とお酒のストーリーを展開するものにした。それによって被害者はただの可哀相な人ではなく、事件を避けることが本当はできた人だという印象を与えることができた。
視覚的に訴えることはおかしいと言うつもりもないが、だから何なのだという疑問が湧く。パワーポイント論に至ってはなおのことだ。「病気とお酒のストーリー」などと仰々しく言うのもついていけない。ある意味、刑事弁護は例外(少数説・非常識)の原則(多数説・常識)に対する挑戦である。私なら、相手が裁判員だろうと裁判官だろうと、通り一遍の常識で簡単に考えてくれるなと言う。事件や被害者の特殊性を必ず訴える。それ以外のことを論じる裁判ではないだろう。
○「受取人は覚せい剤だということを知らない」というが、そんなことは本当にあるのかという疑問を一般人は持っている。そこで組織的密輸の実態を説明し、組織は事情を知らない受取人を利用することがあり得ることを裁判員に理解してもらった。また、ラトビア人の被告人が日本でさかんに飲酒していて覚せい剤の受取人としてははなはだ緊張を欠く状態(犯罪関与者らしくない状態)にあったことを印象づけた。検察の土俵で勝負するのではなく、弁護側の視点を明確に提示することにしたのだ。
そりゃようござんしたと言ってあげたいところだが、最高裁は、背後に組織が関与した密輸事件では、被告人が組織から回収方法を指示されたと認定するのが相当だという判決を出していなかったか。最判と趙弁護士の関与事件の判決との先後がわからないが、最高裁は今や趙弁護士の経験したような事件で無罪を言い渡すことを厳に警戒しているはずだ。その突破策を報告するのなら一読の価値があるが、これはそのような文章にはなっていない。
○情状弁護に燗する立証や主張には難しい問題があるが、事件の内容に深く関心を寄せる必要がある。また、家庭環境のことや謝罪のことなど犯罪そのものとは別の情状に関する検討にも力を入れている。
裁判員裁判に独特の情状立証の弁護活動とは何か、ということをどうして論じないのだろうか。論じたくても論じられないのだろうか。不可解と言うほかない。私などは、数日で審理が終わってしまうような事件では、情状立証の余地など基本的に与えられていないに等しいと思うのだが、趙弁護士はそんなことにはあまり関心がないと見える。情状と言えば、犯罪事実に直接関わる情状事由もあるし、それ以外の情状事由もある。皮相の事実だけではうかがい知れない事件の深層がある。その中から弁護人としては、被告人に有利に働く可能性のある事実を丁寧に拾い上げてゆくことになるはずだ。そういう弁護活動が裁判員裁判のもとで十分できると考えるのか、問題があると考えるのか。このレポートからは少しも見えてこない。
全体的な感想を一言。裁判員裁判の最前線でプロとして頑張っているというのだから、裁判員裁判の弁護活動の特徴をきちんと言うのでなければなるまい。刑事弁護に日ごろ関わっている私としては、刑事裁判一般の弁護活動の話など別に聞きたくもない。そう思う弁護士は私だけではないだろう。。
どうして裁判員裁判の弁護活動に絞り込んだ解説をしないのか(敢えて言えば、それができないのか)と言えば、そのような総括を趙弁護士はしていないからだろうと思う。そもそも法テラスの裁判員裁判弁護技術研究室というところは、本当に「裁判員裁判の弁護技術」を研究しているのだろうか。
しかし、考えてみれば、裁判員たちがどのように裁判官に統制されているか、あるいは統制にめげず裁判官に立ち向かっているか、そこは本当のところわからない。逡巡する裁判官を煽りけしかけているのかも知れない。そのような状態では、裁判員への影響を意識した弁護方針など立てようもない。何を言っても机上の空論になってしまう。
「俺たち、本当のことを言えば雲を掴むような話しかしていないんだよ」と言っている方がよほど真実味があると思うのだが。
投稿:2014年7月20日
台風が通り過ぎた後の蒸し暑い日、鸚哥大学の研究室では3羽による相変わらず暑苦しい…じゃなかった、仲睦まじい鼎談が続いている。
先日は一審裁判員裁判の有罪判決を否定して無罪にしたり、有罪は有罪でも減刑したりする二審高裁判決を見てきたけれど、今日は特に複雑な経過をたどった裁判員裁判と、そこにかけた最高裁の思いや下級審に向けた号令のかけ方を観察しよう。マネージャー、事例を出して。いえ、出して下さい。
チョコレート缶覚せい剤取締法違反事件 一審無罪→二審有罪→最高裁無罪
逆転にもいろいろあるけど、これは、一審裁判員裁判の無罪判決を逆転させた高裁判決をまたまたひっくり返して裁判員裁判を維持した判決。
日本人の被告人が国内に持ち込んだチョコレート缶の中に覚せい剤が入っていたとして覚せい剤の営利目的輸入罪などに問われた。覚せい剤が入っていたことを被告人が認識していたかどうかが争点。
重さが違うことでわかっていたはずとか、いや分からないよとか…。
10年、千葉地裁の裁判員裁判は全面無罪を言い渡す。裁判員裁判の初の無罪。検察控訴。東京高裁は、11年、一審判決を破棄して逆転有罪(懲役10年・罰金600万円)の判決を言い渡したの。
弁護側は上告。12年、最高裁第一小法廷は、「控訴審が事実誤認があるというためには、一審判決の事実認定が論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示す必要がある」とし、「このことは、裁判員制度の導入のもとではより強く妥当する」と判示して、東京高裁の有罪判決を破棄自判した。
そうね。この判決は、下級審の裁判官たちに確かに大きな衝撃を与えたの。前編でも紹介したけど、控訴審裁判所の役割を否定するものではないかという反発にもつながったのよ。
裁判員裁判の有罪率は97%(2009年5月21日から2012年5月31日まで)の高さだ。暁の星ほどの少なさの無罪判決を利用して一審判決を尊重せよと言ったが、結局圧倒的多数の有罪判断を見直すなって言ったようなものさ。
スーツケース覚せい剤取締法違反事件 一審無罪→二審有罪→最高裁有罪
これは一審裁判員裁判の無罪判決を否定した高裁判決を最高裁が支持したケース。被告人は外国人。「被告人が気づかないうちに組織が覚せい剤を運ばせた可能性がある」とした一審千葉地裁の判決について、東京高裁は「机上の論理」と一蹴して破棄。懲役10年・罰金500万円の有罪を言い渡した。
13年、最高裁第一小法廷は、背後に組織が関与した密輸事件では「被告人が組織から回収方法を指示されたと認定するのが相当。一審の裁判員裁判の判断は誤り」と判断。
覚せい剤を密輸する組織なら必ず回収方法を運搬人に指示するはずだってことよ。「誰々に渡してくれとか、いついつ受け取りに行くとか、そんなことは言われていない」という被告人の言い分は嘘だって高裁は判断し、最高裁もそうだそうだと言ったんだ。
「密輸組織が絡んだ覚せい剤密輸事件では、被告人には回収方法は指示されていると見て良い。回収方法を指示されている以上は覚せい剤と認識していると考えよ」と最高裁は言ったってことね。
でも、多くの覚せい剤密輸事件は背後に何らかの密輸組織が絡んでいると考えられるのでは?
そうさ。裁判員裁判では無罪判決がそれなりに出ている数少ない罪種が覚せい剤密輸事件。今後、覚せい剤密輸事件の無罪判決が減るかどうか注目する必要があるね。
東京葛飾窃盗放火事件 一審無罪→二審有罪→最高裁無罪示唆破棄→2度目の二審無罪
09年、東京・葛飾のアパートの一室に空き巣に入り、現金1000円を盗んだ上、ストーブの灯油を撒いて火をつけたとして窃盗・住居侵入・現住建造物等放火罪に問われた。被告人は放火を否認。東京地裁は、被告人の前科の実情を記した証拠に出そうとした検察官の請求について、裁判員に予断を与える危険があるとして拒絶。
予断を与えるとか与えないとか、裁判員裁判ならではの論議っすね。
10年、地裁は被告人が放火をしたとは断定できないとして現住建造物等放火罪を無罪として懲役1年8か月を言い渡した。求刑は7年。検察控訴。
11年、東京高裁は、前科の証拠採用を拒絶した一審判断を違法と断じ、東京地裁に差戻しを命じた。現金をたくさん盗めなかった腹いせに灯油を撒いて放火をした前科事件は本件に似ているというのがその理由。弁護側上告。
高裁は自判(自身で最終判断を示す)しないで、なぜ差し戻したんすか。
うーん。事実審理が足りないときに高裁が自分で調べるか、地裁に再審理をさせるかの判断は高裁に任されてるからね。
12年、最高裁第二小法廷(竹崎博允裁判長)は、「顕著な特徴があり、起訴事実と相当程度の類似が認められた場合にのみ許される」という判断で、二審判決を破棄して東京高裁に差戻し。
13年、東京高裁(小川正持裁判長)は一審裁判員判決を支持して検察控訴を棄却、これで無罪が確定。
最高裁長官が裁判長だったから、高裁はそれに沿って判決を出したと判断していいっすか。
いや、だれが裁判長であろうと、下級審の裁判所は最高裁の差し戻し判決の内容に拘束される。
ちょっと舌足らずね。最高裁は判決をこう書けと言ったんじゃない。
うーん。判決の中で事実調べに不足があると言われたら、その論争点に関する事実調べをやらなきゃいけなくなるのさ。
仙台風俗店経営者強殺事件 被告人A 一審強盗致死→二審強盗殺人示唆差戻し→最高裁同趣旨差戻し→地裁(新裁判員)強盗殺人→高裁強盗殺人→被告人上告取り下げで確定
見るからに複雑。04年風俗店経営者が市内の山林で頭を強く打って殺害され、現金を奪われたとされる事件。遺体は発見されなかった。
09年、被害者の自宅金庫から現金約5000万円を奪うなどしたことを理由に、逮捕監禁罪と営利目的誘拐罪でAら5人を、後にAら3人を強盗殺人罪で起訴。いちばん問題になった被告人Aについてみましょう。
10年、仙台地裁の裁判員裁判は、Aと一緒に殺害計画を立てたという実行役の供述を不自然として、強盗殺人を認めず強盗致死罪で15年の懲役にした(求刑は無期懲役)。検察控訴。
11年、高裁、一審は検察主張を正しく把握していないと判断、強盗殺人を示唆して破棄差戻し。弁護側上告。
12年、最高裁第二小法廷、強盗殺人を示唆して上告棄却、地裁に差戻し。
13年、新たに選ばれた裁判員裁判は、検察主張どおり強盗殺人を認定して無期懲役。弁護側控訴。
14年、高裁、実行役との共謀を認定したが、一審判決後の被害弁償を理由に懲役15年に減軽。弁護側上告。
14年4月被告人、上告取り下げ。強盗殺人で懲役15年確定。
頭がこんがらがってきました。そもそも強盗殺人と強盗致死ってどう違うんすか。
強盗事件の被告人が被害者を殺すつもりだったら強盗殺人、結果として死んでしまったのだったら強盗致死。後でもう少し詳しく説明するね。
やり直しの裁判員裁判では、6日間の日程の内の3日間計8時間を元の裁判員裁判のDVD視聴に宛てました。弁護側は最終弁論で、共謀を否定した一審判決を引用しようとしたけれど、検察が「破棄されている」と異議を唱え、裁判長は引用を認めませんでしたね。
裁判長が最高裁の意を汲んで強盗殺人を適用するために裁判員をリードしたんだろうね、きっと。
2度目の控訴審では、「責任の重さは実行役と同等で2度目の一審判決は正しい。2度目の一審判決の無期懲役も重すぎることはない」としながら、「遺族に被害弁償をしているAを弁償していない実行役と同じ無期懲役にするのは躊躇する」として減軽したの。
最高裁や検察のメンツを立てながら、被告人にも少しまけてやったってこと。
超々政治的判決ですね。でも減軽されたって言っても、Aは別件で懲役24年が確定している人でしょう。実質終身刑じゃないですか。
最高裁もさっさと高裁判決を支持して裁判員裁判をやり直させたってことさ。
チョコレート缶覚せい剤取締法違反事件は、一審無罪→二審有罪→最高裁無罪という経過をたどった。最高裁第一小法廷は、「第一審裁判員判決の事実認定に論理則、経験則等に照らして不合理があることを控訴審は具体的に示せ」と言ったけれど、第一審の裁判員たちは覚せい剤の密輸入に関してどれだけ「論理則、経験則」を持ち合わせていたか。
高裁の判断を否定して地裁の判断の尊重を強調する最高裁の論理こそ、本当に合理性を備えているのかと問われてよいでしょうね。
そう。最高裁は原判決を破棄したうえ、差し戻さず自判した。最高裁が裁判員制度の合憲性を大法廷で言い渡した(11年11月)直後のこの小法廷判決は、いかに最高裁が裁判員制度の延命にかけているかを露骨に示す判決だったと言えるだろうね。
判断がいかに微妙かということは、一審無罪→二審有罪→最高裁有罪という経過をたどったスーツケース覚せい剤取締法違反事件と対比すればわかるわね。
こちらの方は、一審と二審はチョコレート缶と同じ認定経過。そして最高裁も前と同じ第一小法廷だったけれど、ここで判断が前とは変わった。組織が関与した密輸事件では被告人が組織から回収方法を指示されたと認定するのが相当だ、と言うんだ。
そう。同じ覚せい剤密輸入の事件でも、事件の背景などをよく観察すれば、被告人の弁明のウソは見抜けるはずだという訳さ。でも、ほとんどの裁判員は覚せい剤について「論理則」だの「経験則」だのと言われてもわからんだろう。
だから「覚せい剤密輸入事件は裁判員裁判の対象事件から外せ」などという議論が出てくるんですね。
最高裁は、「論理則」「経験則」がわかる(はずの)裁判官たち3人に、制度の定着も破綻もお前たちのリード一つにかかっている、と脅かしているのさ。
最高裁の政治的判決は続いてるわね。一審無罪→二審有罪→最高裁無罪示唆破棄→2度目の二審無罪という経過の東京葛飾窃盗放火事件をみて。
高裁は余罪前科の情報を予断排除の姿勢で厳格に排除した一審の裁判員裁判を打ち消して、前科情報はそれなりに参考にしてよいと検察に寛容な判断を示した。これに対し、最高裁第二小法廷は「よほどのことがない限り前科を参考にするな」と言った。裁判長はあの竹崎長官。裁判員たちに(正確に言えば、裁判員たちに向かい合っている裁判官たちに)「できる限りその事件に即して判定せよ」と強いメッセージを送った。
それは裁判員裁判を尊重せよという高裁裁判官への警告でもありますね。
仙台風俗店経営者強殺事件の被告人Aをめぐる判断の経過はかなりややこしい。一審仙台地裁の裁判員裁判が、実行役と一緒に殺害計画を立てたという検察主張に疑問を示して強盗致死を言渡し、二審仙台高裁が一転やっぱり強盗殺人だろうと判断して事実誤認を理由に差し戻す判決を言渡し、弁護側がその高裁判断は間違いだと主張して最高裁に上告し、最高裁第二小法廷は高裁の判断に特に問題はないとして上告を棄却した。一審2度目の裁判員裁判では今度は強盗殺人を認定し、高裁もこれを認めた。
紛らわしい犯罪名なのでもう少し説明しよう。「強盗殺人」も「強盗致死」も同じ刑法240条に規定されている。前者は殺意をもって人を死亡させた場合に成立。後者は強盗の機会に相手方被害者が死亡してしまった場合に成立する。刑法典では、故意犯とそうでない犯罪が一つの条文にまとめられていて「強盗が、人を負傷させたときは無期又は6年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する」とだけ規定されているので、法律家は前者を「強盗殺人」、後者を「強盗致死」と呼んで区別している。
この2つは犯罪としての悪質さに大きな差があるの。強盗殺人で起訴され、強盗致死の判決になれば、殺人については無罪ということになるのよ。また、同じ刑法240条違反でも量刑は大きく異なり、後者なら実際には死刑になどならないのはもちろん、必ず情状酌量されて有期懲役の判決になるよ。
この事件では、高裁も最高裁も強盗殺人の結論を選択した。結局、強盗致死を認定した最初の裁判員裁判は職業裁判官たちが全面的に否定し、彼らは新しい裁判員たちに以前の裁判員たちの判断をひっくり返させた。
国民の意見を反映させるとかなんとか言うけれど、「刑事裁判に国民が参加して民主的基盤の強化を図る」(最高裁大法廷の裁判員制度合憲判決)という言葉の本当の意味は「この国の司法が正統に行われていることを国民に教え諭す」ことだという話を、誰の目にも明確に示す結果になった。
最近は、地裁と高裁の裁判官の意識の違いなどに触れる学者の分析が出てきていますよね。裁判員裁判を体験した裁判官が高裁に上がってくれば制度を理解する高裁判決が増えるのではないかなんていう文章を読んだけど。
学者は甘いなぁ、だいたい裁判員裁判なんて1度も経験せず、もともと市民の司法参加には強く反対していた竹崎クンが制度推進の旗振りをしたんだぜ。経験の有無で考えるような単純な話じゃない。経験と言えば、高裁に出世して裁判員裁判とさよならできたのが人生最大の喜びだなんて言ってる裁判官がたくさんいる。裁判員制度の矛盾が各方面に提供する話題で、制度破綻の光景は一段と活況を呈しているってことさ。
最高裁や政府が必死に裁判員制度の生き残りを図っているけれど、裁判所が一丸となってその方向に向いているかと言えば、とてもそんな状態じゃない。ひらめ型裁判官もいれば硬骨漢もいる。一審の判断は重すぎると言って高裁の裁判官がひっくり返すと検察は「まだ最高裁がある」って最高裁に駆け込むしね。
それって映画『真昼の暗黒』の被告人の言葉っすよね。検察官が言う言葉じゃないっす。
今は検察がそれを言う時代なの。検察に期待されている最高裁ってね。
そもそも検察に上訴権があるのがけしからん。検察官による上訴は全面禁止すべきだ。検察の横暴こそが…
すみません。つい興奮しました。最高裁は一審裁判員尊重で行けという。でも、我が国の司法の正統性を国民に教育するという制度目的をぶち壊すような判断は絶対にしない。その気配を感じれば、裁判員の判断だって断固否定する。
でも、ここには騙しの手口が潜んでいる。時々は「ちょっとよさげな話」を混ぜるんだ。たとえば「求刑超えの判決はよほどのことがなければやるなよ」くらいのことは言う。
なにが司法が正統に行われてきただ。なにが信頼の向上に資するだ。この国にどれだけのえん罪事件があって、どれだけの人が未だに苦しんでいると思っているんだ!!
破綻も近づく六十庁支部
地裁も高裁にも嫌気が走る
止めよ止め止め止めねばならぬ
止めにゃ司法は自滅する♪
投稿:2014年7月17日
「台風8号ノグリー(狸)」による暴風雨の中、鸚哥大学の研究室では3羽による化かし合い…じゃなかった、仲睦まじい鼎談が始まった。
ねえ先輩。最高裁は12年2月、一審判決を覆すには「論理則、経験則などに照らして不合理であることを具体的に示す必要がある」と判示し、市民の判断を重視する姿勢を鮮明にしましたよね。その号令に下級審の裁判官たちはどう対応しているのですか。
まずは、一審地裁の裁判員裁判の結論をあえて否定する二審高裁の裁判の典型例にスポットライトを当てて考えよう。マネージャー、事件と判決を出して。いや、出して頂けますか。
松戸女子大生殺害放火事件 一審死刑、二審無期。
09年、松戸市のマンションに住む女子大生に対する強盗殺人と現住建造物放火で起訴。被告人は強盗や強姦を犯して服役しており、これは出所した直後の事件。他に強盗強姦などの余罪が11件あったとされる。
11年千葉地裁は「強い力で殺意をもって胸を刺した。犯行態様は執拗で冷酷非情で結果も重大。反省も認められず、更生の可能性は著しく低い。死亡被害者1人でも極刑を避けるべき決定的な理由にはならない」とし、求刑どおり死刑を言い渡したの(裁判長波床昌則)。
13年、東京高裁は「計画性がない。1人殺害の強盗殺人で死刑になった前例もない。死刑を選択するには一審判決は合理的かつ説得力のある理由を説明していない」として、一審判決を破棄し、無期懲役にしたわ(裁判長村瀬均)。
長野市一家3人強盗殺人・死体遺棄事件 共謀者4人中被告人B一審死刑、二審無期。被告人D一審懲役28年、二審懲役18年
10年、金銭トラブルからABCDの4人が共謀して、長野市在住の一家3人の首をロープで絞めて窒息死させ、現金約416万円などを奪い、愛知県西尾市の資材置き場に遺体を運んで埋めたとされ、強盗殺人・死体遺棄で起訴された事件。
長野地裁、11年、A(31歳会社員)に死刑。同年、B(39歳会社員)に死刑。同年、C(34歳会社員)に死刑。12年、D(51歳自営業者)に懲役28年(いずれも高木順子裁判長)。
だれが主犯かとか、被害者も加害者をイジメていてその復讐だとか、やたら入り組んだ事件ですよね。
東京高裁、14年、Aについて一審支持(村瀬均裁判長)。12年、Bについて一審支持(井上弘通裁判長)。14年、Cについて一審破棄し無期懲役に減刑「首謀者らに巻き込まれる形で犯行に加担しており、死刑は重すぎる。従来の被害者3人以上の強盗殺人事件とは重要な事情が大きく異なり、先例を参考にすべきではない。一審には刑の重さの判断に複数の重要な誤りがあった」(村瀬均裁判長)。13年、Dについて一審を破棄して懲役18年に減刑「強盗殺人はほう助にとどまる」(村瀬均裁判長)。
複数の重要な誤りって、市民語に翻訳するとメチャクチャだったと言ってるってことっすよね。
東京南青山強盗殺人事件 一審死刑、二審無期。
09年に東京・南青山のマンションで74歳の男性を殺害したとされた事件。10年起訴。弁護人は無罪を主張し、被告人は完全黙秘。
完全黙秘って裁判員には評判悪いんすよね。やってないならちゃんと弁明しろとか。
一審東京地裁は強盗殺人罪で死刑判決。「状況証拠を総合すると被告人が犯人と認められる。冷酷非情な犯行。2人殺害の前科は特に重視すべきで、生命をもって償わせるほかない」と。
2人殺害の前科って今回の事件とは内容が随分違うんでしたよね。
二審東京高裁は11年、「前科は夫婦間の口論の末の殺人とそれを原因とする無理心中。今回の強盗殺人との間に社会的にみて類似性はない。更生の可能性がないとも言えない。一審判決は刑の選択を誤った」として、一審を破棄して無期懲役に(裁判長村瀬均)。裁判員裁判の死刑判決が破棄された最初の事件。
東伊豆町ホテル暴行死事件 一審懲役12年、二審懲役8年。
10年、静岡県東伊豆町のホテルで元妻の顔や腹を殴って死亡させたとして傷害致死で起訴された事件。
同年、静岡地裁は懲役12年の判決。
検察は殺害を計画して旅行に行ったと言ってたような。でも、復縁のための旅行でそこで元妻が「他の男性と関係している」と言ったことが原因みたいな…。
11年、東京高裁は一審を破棄、8年の懲役に。「被告人の飲酒や睡眠剤服用は犯行にさほど影響を与えていない。復縁目的の旅行中の偶発性の強い犯行。妻側にも原因があり、一審判決には量刑に重大な影響を及ぼす事実誤認がある」と。
一審の裁判員裁判と違って、高裁の裁判官は検察の主張を鵜呑みにしなかったってことっすよね。
強制わいせつ致傷・監禁事件 一審懲役4年、二審懲役3年。
09年、神戸市内のホテルで取引先の女性にわいせつな行為をしたなどとして、強制わいせつ致傷・監禁で起訴された事件。
監禁ってホテルの室内から出られないようにしたってことなんすよね。部屋には自分で入ったんすよね。
被告人は「自供書は警察に誘導されて作成した」として無罪を主張。一審大阪地裁は懲役4年の判決。
被疑者が自分から進んで犯罪を告白したように捜査官がまとめる文書のこと。新明解さん風に言えばね。
大阪高裁は一審を破棄して監禁について無罪を言い渡した(裁判長森岡安広)。「ホテルに無理矢理連れ込まれたという被害者の証言はやや誇張して述べている可能性がある」と。
正直言えば、高裁にはそこまではっきりと踏み込んでもらいたかったね。
竹田母親殺害事件 一審懲役3年、保護観察付き執行猶予5年、二審無罪
10年、大分県竹田市の自宅に引きこもり状態だった男性が同居していた母親の首や胸を缶切りや金属製の箸で何度も突き刺して殺害。
男性は統合失調症の患者だったが、検察は精神鑑定の結果、責任能力があると判断して起訴。
裁判では事実関係に争いはなく、責任能力の争いに。検察は引きこもり生活への不満などが動機と主張、弁護側は心神喪失を理由に無罪を主張。
11年、大分地裁は「急所を執拗に狙っており、行動制御の能力が残っていた」として、懲役3年、保護観察付き執行猶予5年の判決(西崎健児裁判長)。弁護側控訴。
同年、福岡高裁は、当時の生活状況や通常は使わない道具を凶器に使って1時間も攻撃する行動の奇妙さを指摘して被告人を「重度の統合失調症」と認定、引きこもり生活の中でふと「母親を殺そうか」と思ったとする動機も「了解不可能」と論及して責任能力を全面的に否定(川口宰護裁判長)。裁判員裁判の有罪を破棄して全面無罪を言い渡した初の判決。
その前にまずは裁判官を紹介しよう。何回も名前が出てくる村瀬均裁判官について。この人は一審の死刑判決を3件破棄して無期懲役にした高裁判事。裁判官経歴37年。最高裁刑事局付、最高裁調査官、司法研修所教官を歴任したエリート裁判官。現在は東京高裁部総括判事。東京地裁時代に、新宿のホームレス強制撤去事件で無罪を言い渡したかと思うと、都立高校元教員が卒業式開始前に君が代不起立を保護者たちに呼びかけたことを威力業務妨害として罰金を言い渡したりしたことで知られる。
村瀬さんは威力業務妨害判決で「ヒラメになった」と非難する人もいるけど、私はそうは思わない。きっと1対2の合議で破れて仕方なくだったと信じている。
(きっ)確かに村瀬さんは裁判官にしておくにはもったいないと思うけど、それで言ってるんじゃありません。
はいはい、次に川口宰護裁判官。地裁時代に無罪判決をいくつも出している。福岡地裁では、飲酒した地方公務員が運転する自動車にぶつけられて海に落ち3人の子どもたちが亡くなった事件で、危険運転致死罪の成立を主張する検察に、業務上過失致死罪(当時)に訴因を変更させたことでも話題になった。裁判員制度を宣伝する最高裁のリーフレットに登場したことでも知られる。高裁に来てからは一審無罪を逆転させるケースも目立つよ。
この人も裁判官にしては見た目が良い男ね。だからリーフレットの顔に選ばれた。
でも、竹﨑さん(前最高裁長官)や寺田さん(現長官)ではちょっと陰気っぽくって…。
東京南青山強殺事件で死刑判決の言渡しに参加した裁判員たちの感想を取り上げると。
判決後の共同記者会見で、判決言い渡しにも無言を通した被告人に、50代の女性裁判員は「感情がまったくわかからない」。補充裁判員の30代の男性裁判員は「被告がしゃべってくれたら何かわかると思ったが」。死刑判断にかかわった精神的負担について、20代の男性裁判員は「今のところ負担はない」。40代の女性裁判員は「今はあまり今後の負担を考えないようにしている」。50代の女性裁判員は「日常生活に戻った時に負担を感じるかもしれない」。この事件の一審判決は高裁で破棄された。
今のところとか、考えないようにしているとか、感じるかも知れないというような「奥歯に物が挟まった」言い方をするところに、心の奥底によどむ複雑な思いが覗けるわね。
この裁判員の皆さんは、二審の減刑判決を知ってどう思ったのでしょう? 悔しかったかほっと安堵したのか。裁判員をまたやってみたいと思ったか、2度とやりたくないと思うようになったか。
そうね。どうなんでしょう。
さて、問題は、市民の判断を重視する最高裁の姿勢に、高裁の裁判官たちがどういう態度をとっていると見るかだわ。
不合理であることを具体的に示していない逆転判決など現実には考えられない。だから、「不合理であることを具体的に示せ」という指示は「よっぽどのことがない限り裁判員裁判の結果に従え」と言っているに等しい。とすれば、彼らは最高裁の指示に唯々諾々と従うことはせず、むしろ抵抗とも言える行動をとっていると見て良いだろう。
今年4月14日のジャーナリストの卵OMさんが「全国犯罪被害者の会に参加し、刑事司法を考える」でも報告してくれているが、1月、全国犯罪被害者の会(あすの会)が「何時間もかけて慎重に心理を尽くし死刑を言い渡した一般市民の判断の重みを軽視し、裁判員制度の否定につながりかねない。軽々に一般市民の良識ある判断を覆すべきではない」と決議した。高裁の逆転減刑判決を怒る人たちと最高裁の姿勢には通じるものがある。
結論として、「一審裁判員裁判を否定して減刑する二審高裁判決は、裁判員裁判に対する裁判所部内の亀裂と溶解を私たちの眼前に展開している」ということですね。
投稿:2014年7月13日
静かに雨が降る昼下がり、鸚哥大学の研究室といえば相変わらず賑やかなようで
法務大臣の諮問機関「法制審議会」の刑事法特別部会が、6月26日、審理がひどく長くなりそうな事件は裁判員裁判の対象から外す「要綱骨子」をまとめたそうね。
裁判員裁判の対象事件でも、審理が著しく長期に及び、裁判員を十分に確保できない場合には、裁判官だけで審理してもよいことにするというんですよね。これでどうにかなるんですか。
どうにかなるかという話に入る前に、「審理が著しく長期に及び、裁判員を十分に確保できない場合」っていうのは、どういうときのことかを考えてみよう。
記録をみると、さいたま地裁では100日、鳥取地裁では75日、鹿児島地裁では40日の審理期間になった事件があって、こういうのが異例の長期事件と言われてますね。でも、裁判官の裁判ならその程度の審理期間で判決が言い渡されたら、「超短期」裁判なのよね。それが裁判員裁判では異例と言われている。
だいたい、こういう事件では呼び出された候補者のほとんどが出頭を拒絶してしまうんだ。鳥取地裁では出頭率は僅か5%だった。この少なさで裁判員と補充裁判員を確保しなければならない。「長期」裁判だと補充裁判員の数も普通より多くしておかなければいけないという問題もあるのにね。
ほとんどが出頭を拒否する中で、補充裁判員の数まで多くしなければならないっていうと、どうすんですか。
呼び出す相手の数をべらぼうに増やすしかない。鳥取では、1500人の県民に呼出状を送ったんだけど、これはこの年のこの県の候補者の半分を使い切る数だったんだよ。
インコさんが砂丘でラクダの上から制度廃止を訴えたときのことよね
でも小さいインコがちょこんと背中に乗るんだったら可愛いんだけど、世界一大きくて重いインコでしょ、ラクダさんが嫌がってね…。
うるさい。話を戻す。
「法制審議会特別部会」の「著しく長期に及ぶ」というのはどのくらいの長さを考えているのかだ。部会では「1年以上」という案が有力だったけれど、結論は現場の裁判官の判断に委ねることにしたという。
このあいまいさもくせ者ね。これまででいちばん長いのはさいたま地裁の100日だから、「1年以上」ならその3.6倍を超える。ホンネを言うと、法務省としては1年を割り込んでも「著しく長期」と見なすつもりじゃないかしら。
そうだよね。審理自体が1年以上になる事件なんていったら、公判前整理手続きがおそらく3年くらいかかって、裁判期間の全体をとんでも長くさせる。統計的にも裁判員裁判の平均裁判期間を破滅的に長くして、そっちの面から大問題になってしまうだろうね。
なるほど。鳩山邦夫元法務大臣の所得が歴代最高の年29億円もあったんで、自民党の国会議員の平均収入が跳ね上がったっていうアレですね。そう言えばこの人、インコレジェンドのお方でしたよね。
まてまて、横に流れていきそうな危険な予感…。話を戻しましょう。
わかりました。では「裁判員を十分に確保できない場合」というのはどういうことですか?
それは、出頭率がひどく低くなってしまう時とのことね。皮肉を込めて言えば、「あれ、十分に確保できてたんじゃなかったっけ。この制度順調じゃなかったの」という話よ。さてインコさん、この新方針どうみる。
「超長期」の事件を裁判員裁判から外して、裁判員には「短期か中長期」の事件しかやらせないことにするという方針は、制度の起死回生につながるか、かえって死期を早めるかだ。「ご安心下さい。そんなに皆さんを長く拘束しませんから」と言うと一般の国民の参加意欲が高まるなら生命維持装置になるけれど、みんなの「厭制度感」をいっそう強めてしまえばストリキニーネになってしまう。
審理がそれほど「長期」でない事件でも、このところ候補者の出頭率がどんどん落ちている。今年1月には平均値がついに30%を割り込んでしまった。審理が長かろうと短かろうと、「厭制度感」が強まり、ご免被りたいという人がすさまじいテンポで増えている。
つまりどんな事件でも「裁判員を十分に確保できる」場合なんてもうなくなってきたってことだ。圧倒的多数の呼び出し対象者が断ってくることを予定して、対象者の数を実際に集まってもらいたい候補者の数の5倍、10倍に増やさなきゃならない事態が完全に常態化している。
制度の原点に立ち戻って考えて見ましょう。「超長期」裁判というのは、ほとんど無罪が争われている超重大事件、有罪なら死刑必至というようなケースばかりです。
そういえば、制度発足の当時、「どうして裁判員裁判対象事件を重大事件に絞るのか」という質問に答えて、当局は「そういう事件こそ社会の安心安全を自分たちで守るという意識を国民に定着させるのに役立つ」というようなことを言っていましたよね。
おっ、よく覚えていたわね。偉いわ。そう、だから、制度導入の目玉と言ってもよい事件を制度から外すというのは、制度の崩壊を食い止めるぎりぎり苦肉のカード。でも、それ自体が制度の自己否定を象徴していることになるわね。
インコは厳粛に予測する。裁判官裁判に戻す「超1年」が「超半年」になり、「超100日」になり、「超50日」になったら、国民の間からは「もっと短く」「裁判は裁判官に」コールがいっせいに上がり、また「短期・中長期」事件の出頭率が少しも上がらない、戻らないという圧力が加わる。悪夢のスパイラルだ。
つまり、国民の心が離れているという事態は、小手先の細工をいくらしてみたところで改善の余地などない、むしろ事態をますます破滅に近づけるだけだっていうこと。「一度はなれた 心は二度ともどらないのよ もとには♪」という唄を地で行っているようなものだ。古い唄で済まないが…。
人に言われる前に自分で告白したわね。近く法制審が谷垣法務大臣に答申し、法務省は秋の臨時国会に裁判員法改正案を提出し、早ければ来春にも改正法が施行されるというのだけれど、「超長期」事件なんてこの5年間に1件もないのに、このあわただしさはいったい何だというのが識者のもっぱらの見方。
ものごと、最終局面になるととかくばたばたするもの。あんたホントおバカさんよね。あきらめが悪すぎるよ。ほら、耳を澄まして聞いてごらん、聞こえてくるでしょ。(と言いながら歌うインコ。)。
私バカよね おバカさんよね
うしろ指 うしろ指 さされても
制度推進に命をかけて
耐えてきたのよ 今日まで
隙間風が吹く 三宅坂を
転がり落ちるように
私も辞任するわ 定年待たずに
私バカよね おバカさんよね
大切な 大切な 司法を
わるい制度と 知っていながら
変えてしまった 稚拙に
不出頭続出 処罰もできず
人心は離れるままに
私も展望が見えない あてもないままよ
私バカよね おバカさんよね
あきらめが あきらめが 悪いのね
一度はなれた 心は二度と
もどらないのよ もとには
小手先だけの 見直しでは
どうにもならないように
私も廃止を言うわ 一日も早い廃止を
投稿:2014年7月6日
ストレス多い裁判に関わっている一弁護士
裁判(員)ゲームを作った大阪の弁護士の話を読んで、その発想のそのルーツと言ってもよい本のことを思い出した。それは『裁判員をたのしもう!』という本である。裁判員制度に関する本をたくさん出している「現代人文社」が、裁判員裁判開始直前の2009年3月に出版したものだ。
「裁判員をたのしむ」と言うのだから、裁判員の楽しみ方を知る人が楽しみ方を(あまり)知らない人たちに教えてくれる本ということになる。だが、山登りを楽しむとか、絵を楽しむとか言えば、門外漢でも多少の想像はつくけれど、たいていの人にとっては「裁判員を楽しむ」と言われても「多少」の想像もつかない。私の周囲の市民は、私が「裁判員」のことに触れると、ナメクジを見たときのような顔をする。
とすると、この本は、多くのみなさんは誤解しているが、裁判員というのはホントはとても楽しいもの、食わず嫌いはもったいないという展開になる必要がある。本の冒頭に山の写真を並べたり、お花畑に立つイーゼルや画材のグラビアを置いたりするように、裁判員ってこんなに楽しいということをリアルに示すことが何よりも大切だろう。
この本は、しかしそんな内容にはまるでなっていない。裁判員をたのしむためのウォーミングアップは、傍聴に行くことと小説・マンガ・映画・ゲームソフトから学ぶことだという。次に、たのしむ「最低限の予備知識」として、裁判員裁判に登場する人物(裁判官や検察官・弁護人のこと)と刑事裁判の全体像(呼び出しから評議までの流れ)を知る必要があるという。そして検察官・弁護人が事前準備することを知りなさいと来る。で、評議には良い評議と悪い評議があるという話になる。それこそ、宮沢賢治の『注文の多い料理店』のようだ。よくよく勉強して自分のからだに塩をすり込んでからでないと裁判員を楽しんではいけないと言っている。で、裁判員をたのしむ最後の予備知識は裁判官の決めぜりふに負けるなということだと。なんのことだ。
裁判傍聴が「とってもオススメ」、よくわからない用語・裁判の流れ・裁判所の雰囲気に慣れておくと評議にも集中できる…。そんな言葉が並ぶが、裁判のリアルを知るとどうして「裁判員をたのしめる」ことになのかという話の本筋がまったく出てこない。知れば知るほど深刻な現実が目の前に広がるばかりではないのか。どうしてそれがたのしい経験に変わってゆくのか。
小説・マンガ・映画・ゲームソフトから楽しみ方を学ぶという物言いもひどく怪しげである。裁判をテーマとする古典的名作があり、不朽の名画も確かにある。私は裁判物の小説や映画は実際大好きだ。だが、それらの作品に目を通すことで裁判員裁判を知るきっかけにしようと言っているのは、つまり現実をドラマ仕立てで見て行こうということなのだろう。
現実の裁判を現実のものとしてではなくドラマのように受けとめればおもしろくなってくると言うのだとすれば、それはとんでもない了見違いである。市民が遠山金四郎や大岡越前になったつもりで本物の裁判に臨んだらおもしろくなるだろうという言い方は、刑事裁判の現実を冒涜するものと言うほかない。お芝居と実際は「100%」世界が違う。
この本は、最後に、「あなたにもできる 裁判員をたのしむための7つのヒント」という章を設けて、次のようなことを言う。
① ファッションにこだわろう 判決日は被告人の運命の瞬間に立ち会うということから、若干ビシッとした感じで。少し固めでキメてみる。自分で作った「法服」を着ると裁判員としても気合いが入るのかも知れません。
② 食堂探検をしよう 裁判所職員のオフ姿を眺めながら食事をするのも楽しい。
③ 仲良しになろう 休憩のときにお茶を飲みながら、皆さんの住んでいるところや家族構成など、軽く聞いたりしてみると、見た目からはわからない情報が引き出せる。
④ 積極的に質問しよう 一見、事件に関係ないかもと思うような質問でも、自分にとって重要だと思うのであれば、思い切って質問して下さい。
⑤ 裁判が終わったら飲みに行こう 判決後は修学旅行の後のような、部活を引退するときのようなアツい連帯感と感動が生まれる可能性も。機会があれば飲み会をするぐらいなノリで、気の合いそうな裁判員を誘おう。
⑥ 報道を見てみよう 事件に関する報道の内容と自身の見聞きした内容が合っているかどうかをチェックしよう。
⑦ 体験記を書こう 裁判官がどのように評議を進行させたか、自分自身がどう考えたかを公表することは何ら問題にならない。
これが裁判員をたのしむためのヒントなのだそうだ。何という空疎さ、何と言う低劣さ。なお一言指摘すれば、「裁判官がどのように評議を進行させたか、自分自身がどう考えたかを公表することは何ら問題にならない」というのは間違いとされるだろう。そのようなことは評議の秘密を直接間接に暴露するものになるはずである。
裁判員として刑事裁判に参加することが現代に生きる市民にとってかつてない深い意味と価値があるのだというのなら、そのことを正面からきちんと言い、そしてその歴史的経験は深い意味で「楽しい」ことではないかと言うべきだろう。
ファッションや食堂探検や飲み会を楽しむレベルでしか、裁判員や裁判員裁判の楽しみを語れないところに、この本の救いがたいくだらなさがある。だが、このことはこの本の製作に関わった人たちの低レベルに起因するのではなく、この制度を推進している勢力の本質的なでたらめさ・退廃に起因していると言うべきだろう。推進している人たちはどう頑張ってもこの程度のものしか作れず、この程度のことしか語れないのである。
その後この本が増刷を重ねているのか、それとも
それっきりになってしまったのか、私は知らない。
投稿:2014年7月3日