~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
8月16日午後3時から鸚哥大学で開催された「夏期公開講座-危険な新捜査手法」でのニャンコ先生の講演内容です。
みなさんのお手元には、「可視化に潜む問題」と題する資料が事前に配付されていると思う(同資料の内容は「可視化ってなんだ、で本当は何が問題なのか」をご覧ください)。その説明の中で法制審議会の「新時代の刑事司法制度特別部会」の話が出てくる。
今日は、法制審議会の中の「新時代の刑事司法制度特別部会」がこの間、何をしてきたのかを中心にお話しする。裁判員制度と連動する司法改悪のもくろみを全体的につかむ機会にしてもらえると私としてはありがたい。
話は前史から始まる。法制審議会というのは法務大臣の私的な諮問機関だ。法務省は、関係する法律を新設したり改正したりする時に、その準備を法制審の答申に拠って進めることがある。一見民主的なやり方に見えるが、誰を審議会の委員にするかは法務省の自由だから、公正さなんて何も保障されていない。安倍首相の安保法制懇についてもそういう批判が強烈にあったけれど、これも同じ。法務省の方針に賛成してくれそうな人たちを委員に選んで、「国民の代表格の皆さんのご意見をうかがいました」と言う。
可視化を議論した「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員は、この国の司法が正統に行われていると確信している裁判官や検察官や学者たち、「可視化いのち」の権力調整弁護士、この微妙なかけことば、わかるかなぁ(笑)、はっきり言ってガス抜き人気取り策でしかない国民代表風な人たちからなる。資料の表現を繰り返せば「お化け屋敷」(笑)。
この部会はどうしてできたのか。皆さんは、障害者郵便制度の悪用を疑われた厚労省村木厚子局長のえん罪事件を覚えているだろうか。「あなたはもう忘れたかしら」とかいう唄があったような気がするが、ちょっと忘れた(笑)。だが、村木さんの事件は忘れられる話ではない。3.11で国民の監視の目から逃げおおせたと法務省は思っているかも知れないが、そうは問屋がおろさない。
裁判員裁判開始1年後の2010年9月、前田恒彦大阪地検特捜部検事が証拠物件のフロッピーディスクを改ざんしたとして逮捕され、10月には上司の大坪弘道特捜部長や佐賀元明副部長が前田検事の証拠改ざんを知りながら隠したとして犯人隠避の容疑で、それぞれ逮捕された。
特捜部の要人が職務に関連して捜査犯罪を犯したという異例・異常の事件。検察に衝撃が走った。でもそれは「あるべからざることが起こった」という衝撃じゃない。「とうとうここまで来たか」という衝撃だ。最高検が直接捜査し、高官が陳謝して信頼回復の決意を表明した。10年10月、最高検は前田検事を証拠隠滅罪で起訴。11年4月、大阪地裁は懲役1年6ヶ月の実刑判決。前田検事は控訴せず確定。
前田・大坪・佐賀は免職、その上司たちもそれぞれ懲戒や依願退官、大林宏検事総長は柳田稔法務大臣から「検察の信頼は地に墜ちた。信頼回復に向けてリーダーシップを発揮せよ」と口頭注意を受け、謝罪会見のあと辞任。
しかし、検察には卑劣な捜査活動や公判活動の歴史が山ほどあるとして、「地に落ちる」ような信頼なんてもともとなかったという辛辣な批判もされたが、その批判は「圧倒的に正しい」。これ、どこかで聞いた台詞かも。何とか形をつけねばというところに追い込まれた検察は、この年10月、前法務大臣の千葉景子弁護士を座長とする「検察の在り方検討会議」を設置した。これも法務大臣の私的諮問機関。
検討会議は、半年後の11年3月、「検察の再生に向けて」と題する提言を提出。内部監察体制の構築、取り調べの可視化、つまり録音・録画の拡大、供述調書に依存した捜査・公判の見直しなどを求めた。しかし、内容らしい内容はなにもなかった。
実態を言えば、検討会議では、全過程の可視化を求める弁護士や有識者の意見に警察検察が猛反発して、それなら通信傍受、おとり捜査、司法取引など新たな捜査手法を導入せよと強調し、刑法学者の井上正仁元東大教授もこれに同調した。この学者は「司法制度改革審議会」(1999-2001)メンバーで、その後裁判員制度の法制化を進めた「裁判員制度・刑事検討会」(01-04)の座長だった人だ。(会場から「やっぱりなぁ」の声)。
検討会議は、結局、取り調べの可視化は「その範囲を拡大する」という程度の話で幕を下ろした。途方もない検察捜査犯罪をきっかけに「検察の在り方」を検討し直すはずだったこの会議は、捜査の反省など爪の先ほども示さず、「失墜した検察への国民の信頼回復」などどこ吹く風という調子で終結した。
これを受けて、このメンバーの大半が参加してだ、この年11年6月に始まったのが、前回説明した「刑事司法制度特別部会」なのだ。だからおかしな結論に行き着くのは出発当初から確実に予想されていた。腐敗しきった検察の捜査姿勢を根底から正すには何をすべきかという問題はまったく俎上に上らず、いや上らせず、取り調べ中心の捜査をどう変えるかとか、取り調べを可視化するかというような、どうしようもない議論に終始した(会場ため息)。
今年7月、部会は答申案をとりまとめた。「新たな刑事司法制度の構築について調査審議の結果」がそれだ。内容を簡単に紹介しよう。
第1は、全過程を録音・録画するのは、裁判員裁判の対象事件と検察の独自捜査事件だけになったということだ。注意する必要があるのは、ここで裁判員裁判が登場したこと。新たな刑事捜査手法は裁判員制度と確実に連動している。裁判員たちに捜査の正しさを理解させるには可視化が必要・有効だという検察の考えが最前面に出た訳だ。
だが、資料でも紹介したように、裁判員裁判は全刑事事件の僅か2%。検察の独自捜査事件というのは、特捜事件など検察が自ら捜査を開始する事件のこと。毎年100件あるかないかだ。それも検察官が不都合と考えれば可視化はしないでよいことにされた。つまり、可視化は当面ほとんどの事件で採用しないことが確認され、有利なら使い、不利なら使わないでよいという捜査当局にとって実に好都合な武器になったのだ。
第2は、司法取引。容疑者が他人の犯罪を捜査当局に知らせたり法廷で話したり、関係する証拠を差し出したりすると刑事責任が軽くなる仕組みだ。これで、共犯者がでっち上げられたり責任が過大に追及されたりする一方、取引した本人は見返りとして責任を免れたり軽くして貰えたりすることになった。
真相の究明と刑事責任の糾明に国民を利用する点でそもそも大問題であり、またえん罪が多発する危険につながる。窮地に追い込まれた被疑者は、時に他人を巻き込んで自身の責任を免れようとしたり、軽くしてもらおうと考えたりするものだ。
第3は、盗聴できる対象事件の大幅な拡大と条件の緩和だ。これまでは薬物犯罪とか銃器犯罪など4種の罪に限られていた(それも人権上問題だと批判する意見が強くあった)。それを窃盗や詐欺や恐喝や傷害などの刑法犯罪をはじめとして、種々の犯罪に広げることが決められた。共犯者がいるほとんどすべての犯罪が適用対象になる。また盗聴をする際にこれまで求められていた通信事業者の立会いが要らなくなり、警察だけでできることになった。
第4は、証拠隠しをするなという被告人側の要求には、公判前整理手続きの中で、被告人側に証拠のリストを示すだけで証拠自体は示さなくてよいことになった。捜査当局の言い分がほぼ100%通ったことになる。
法務省は、これを今年9月の法制審議会の結論にし、来年の通常国会に刑事訴訟法の改正案を出すことを考えているという。どれもこれもトンデモない結論である。日弁連は、可視化を餌に途方もない毒饅頭を食わされた。特捜検事の証拠ねつ造に始まった「検察改革」論は、さらなる人権侵害検察に焼け太りして、こういう結論に到達した。やっぱりお化け屋敷だった。
悪らつな国策に利用された人たちはどういう役回りを演じたのかわかっているのだろうか。思い起こすのは「地獄への道は善意の小石で敷き詰められている」というあの警句だ。
「再審・えん罪事件全国連絡会」は、7月11日、「答申案」に抗議し、法制化に反対する声明を出したので要旨を紹介しよう。
「『答申案』は当初の原点から大きくかけ離れ、限定的な可視化と引きかえに新しい捜査手法を導入した。えん罪の原因を温存したまま捜査権限を強化すれば、えん罪のおそれをいっそう拡大する。
10年の足利事件・布川事件の再審無罪、12年の東電OL事件の再審無罪、14年の袴田事件の再審開始決定と、深刻なえん罪被害がこの間相次いで明らかになっているが、特別部会はこの事実を完全に黙殺した。
八海事件、梅田事件、福岡引野口事件、福井女子中学生殺人事件など、多くの冤罪事件で、『司法取引』制度の危険性が明らかにされている。盗聴法の対象事件の拡大と手続の簡易化は、国民生活の隅々までも監視の目と耳を広げるもので、国民の人権を侵害するおそれは極端に高まる。えん罪の根本原因をなくす刑事司法改革に一日も早く着手することを訴え、『答申案』の法制化に強く反対する」と。
メディアもさすがに反発した。たとえば、『静岡新聞』の7月12日付け社説「法制化には課題が残る」は、「司法取引」に批判を集中し、新たなえん罪を生む懸念に加えて、免責が見込めることになると犯罪への抵抗感も薄れるのではという意見も引いて、法制化にはさらに慎重な検討を要すると警告した。
法務省が言う「新時代」とはどういう時代だろう。法務省自身が「新時代」と銘打ったのだから、その意味を国民に丁寧に説明する責任が法務省にはある。しかし、法務省はその責任を完全に放棄した。そこにこそ新しい捜査手法をめぐる最大の問題が潜んでいる。
首相の一言で憲法解釈が変えられてしまうこの国だが、当局の国民に対する態度に当の国民からこれほど深く疑いの目が向けられた時代はこれまでになかっただろう。「新時代」という表現の本当の意味はそういう「新時代」だ。それは国民がこの国の為政者がやることを頭から信用しなくなっている時代である。裁判員になりたくない人が85%に達する時代ということだ。
可視化で裁判員の理解を求めようという法務省の狙いは、この国の捜査当局への根底的な不信の前に確実に崩壊する運命にあると予言しておこう(拍手)。
*講座はこの後、活発な質疑応答が行われ、定員200羽のところ、352羽のみなさんにお集まりいただき、立ち見が出る大盛況に終わりました。
投稿:2014年8月17日