~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
一大学院生
司法制度改革審議会が答申するまでに議論が百出し、裁判員法が成立したときにも国会内で与党議員からさえ強い疑問が投げかけられ、欠陥法を自認するかのような「3年後の見直し」が法律上明記され、国民の理解を得る努力をせよという附帯決議が付けられ、5 年の準備期間中にも疑問や反発の声が最高裁に押し寄せた。
問題だらけ傷だらけの司法制度としてレイムダック状態で波止場を離れた裁判員丸は、騙しや力わざで批判を押さえ込む5年の準備期間を経て5年前に外洋航行に出た。
その行く手を阻んだのは多くの国民から共感と支持を集める制度廃止論であった。 制度の廃止を論じることは推進勢力内では禁忌になった。いつ終わりになるのかわからない制度、いつ終わりになってもおかしくない制度と思われているから、放っておけば国民の議論は水が流れるようにそちらに向かう。
そうはさせじと考える当局は、何としても廃止論に接近することを避ける。 3年後に制度を見直すというやり方にも、廃止とは言わせないという防波堤の意味が込められていた。当局の頭に常にあったのは「どう見直すか」ではなく、「廃止論とどう戦うか」であった。
無理を犯して出帆すればそうなることは見えていたし、その結果はさらなる矛盾につながることもわかっていた。だが、そうするしかなかった。 制度を推進する勢力や人たちから廃止論に関する評価の言葉を引き出すことは、したがって至難である。
極めてまれに出てくる言葉を通じて、彼らが廃止論や廃止運動をどうみているかをうかがい知ることができる。それらはもちろん廃止論への批判や異論であるが、批判や異論も子細に検分すれば、本当のところ廃止論にどのようなスタンスをとっているのかを推測することができる。
平成24年12月に最高裁事務総局が公表した「裁判員裁判実施状況の検証報告書」は、その数少ない「廃止論に論及した書物」である。
報告書は、最後の「あとがき」で、「憲法違反の主張をはじめとして制度そのものを廃止すべきであるといった意見はごく一部にとどまり、現在は、制度の維持を前提とした議論が大勢を占めている」と解説した。
だが、廃止論が「ごく一部にとどま」るという評価をする以上は、なぜ「ごく一部」なのかについて実証的な説明をしなければならない。「あとがき」の冒頭で、「立場の違いをできるだけ捨象し、客観的な資料を整理することを主眼としてきた」と言っているくらいだから、「ごく一部」であることの正確な論証は欠かせいはずである。
しかし、ここには、廃止を求める出版物や論考の紹介はもちろん、メディアが報じる廃止運動も何一つ紹介されていない。 同じ批判は、「現在は、制度の維持を前提とした議論が大勢を占めている」という表現にも当てはまる。「制度の維持を前提とした議論が大勢を占めている」ことはまったく証明されていない。
そもそも「議論」とは何を言うのか。「大勢」というのは何を指すのか。 制度実施から3年を経過した2012年の「季刊刑事弁護」№72号は「裁判員裁判の改善に向けて 3年後見直しの論点と制度改革の展望」という特集を組んでいる。
その中の、「裁判員制度3年後検証から見えてきたもの」というタイトルの論文(執筆者は村岡啓一一橋大学教授)も廃止論に触れた「貴重な」論文である。
氏は、「見直しにあたって最初に検討すべきテーマは、この制度は廃止すべきか維持すべきかではなかろうか」と問題提起する。見直し論が登場した本当の理由を氏が知らないとは思えないが、そのことに目をつぶって言えば、氏の論は正論である。
実際、氏は、「現に、制度創設時から、裁判員裁判の弊害と危険性を訴えて即時廃止を求める市民運動も組織され、一定の支持者を得てきたという現実がある」とも言う。この記述をしたことについては(その後の展開に目をつぶれば)最高裁よりははるかに実証的である。
だが、結局氏は、「司法に対する国民の理解は増進したが、司法に対する国民の信頼は向上は途上、裁判員制度の法目的は一応達成されている」という結論に到達する。裁判員をやりたくないと言う人が85%にも達することは、氏にとってはさして気になることではないらしい。
その氏は言う。「現行の裁判員裁判を廃止すべきと主張する廃止論の根底には、裁判員制度が市民参加という民主的な装いをとりながら、その実、官僚主義の司法に奉仕するために国民が取り込まれるという危機感がある。この警告は尊重すべきものであるが、施行後3年間の実績を見る限り、…裁判員は常識的な判断を裁判に反映させるという役割を予想以上に果たしている」。しかし、「不断の努力で刑事司法の理想形を追求しなければ、廃止論者が危惧する最悪の刑事司法をもたらす」。
とりあえず制度の現状は「国による国民動員」にはなっていないが、そうならないように不断の努力を尽くさなければならないという話らしい。
この論の合理性については、この分野に詳しい最先端のウェヴ投稿者の皆さんに任せよう。
私が指摘したいのは、裁判員制度推進の立場に立つことで知られている大学教授もこのような形で廃止論を俎上に載せて論じているという事実である。
廃止論は、最高裁が何とか無視したくてその思いあまってぽろりしゃべってしまうほどに「大きな存在」であり、大学教授がわざわざ取り上げて推進派に「警鐘を鳴らす」ほど大きい存在なのである。 制度推進勢力にとっては、あれやこれやの微修正論などははっきり言えばどうでもよいのだ。裁判員制度廃止論と裁判員制度廃止運動こそが今正面から向かい合っている正真正銘の対決相手である。二つのメッセージはそのことをよく示す「実証的資料」である。
投稿:2014年8月28日
8月16日午後3時から鸚哥大学で開催された「夏期公開講座-危険な新捜査手法」でのニャンコ先生の講演内容です。
みなさんのお手元には、「可視化に潜む問題」と題する資料が事前に配付されていると思う(同資料の内容は「可視化ってなんだ、で本当は何が問題なのか」をご覧ください)。その説明の中で法制審議会の「新時代の刑事司法制度特別部会」の話が出てくる。
今日は、法制審議会の中の「新時代の刑事司法制度特別部会」がこの間、何をしてきたのかを中心にお話しする。裁判員制度と連動する司法改悪のもくろみを全体的につかむ機会にしてもらえると私としてはありがたい。
話は前史から始まる。法制審議会というのは法務大臣の私的な諮問機関だ。法務省は、関係する法律を新設したり改正したりする時に、その準備を法制審の答申に拠って進めることがある。一見民主的なやり方に見えるが、誰を審議会の委員にするかは法務省の自由だから、公正さなんて何も保障されていない。安倍首相の安保法制懇についてもそういう批判が強烈にあったけれど、これも同じ。法務省の方針に賛成してくれそうな人たちを委員に選んで、「国民の代表格の皆さんのご意見をうかがいました」と言う。
可視化を議論した「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員は、この国の司法が正統に行われていると確信している裁判官や検察官や学者たち、「可視化いのち」の権力調整弁護士、この微妙なかけことば、わかるかなぁ(笑)、はっきり言ってガス抜き人気取り策でしかない国民代表風な人たちからなる。資料の表現を繰り返せば「お化け屋敷」(笑)。
この部会はどうしてできたのか。皆さんは、障害者郵便制度の悪用を疑われた厚労省村木厚子局長のえん罪事件を覚えているだろうか。「あなたはもう忘れたかしら」とかいう唄があったような気がするが、ちょっと忘れた(笑)。だが、村木さんの事件は忘れられる話ではない。3.11で国民の監視の目から逃げおおせたと法務省は思っているかも知れないが、そうは問屋がおろさない。
裁判員裁判開始1年後の2010年9月、前田恒彦大阪地検特捜部検事が証拠物件のフロッピーディスクを改ざんしたとして逮捕され、10月には上司の大坪弘道特捜部長や佐賀元明副部長が前田検事の証拠改ざんを知りながら隠したとして犯人隠避の容疑で、それぞれ逮捕された。
特捜部の要人が職務に関連して捜査犯罪を犯したという異例・異常の事件。検察に衝撃が走った。でもそれは「あるべからざることが起こった」という衝撃じゃない。「とうとうここまで来たか」という衝撃だ。最高検が直接捜査し、高官が陳謝して信頼回復の決意を表明した。10年10月、最高検は前田検事を証拠隠滅罪で起訴。11年4月、大阪地裁は懲役1年6ヶ月の実刑判決。前田検事は控訴せず確定。
前田・大坪・佐賀は免職、その上司たちもそれぞれ懲戒や依願退官、大林宏検事総長は柳田稔法務大臣から「検察の信頼は地に墜ちた。信頼回復に向けてリーダーシップを発揮せよ」と口頭注意を受け、謝罪会見のあと辞任。
しかし、検察には卑劣な捜査活動や公判活動の歴史が山ほどあるとして、「地に落ちる」ような信頼なんてもともとなかったという辛辣な批判もされたが、その批判は「圧倒的に正しい」。これ、どこかで聞いた台詞かも。何とか形をつけねばというところに追い込まれた検察は、この年10月、前法務大臣の千葉景子弁護士を座長とする「検察の在り方検討会議」を設置した。これも法務大臣の私的諮問機関。
検討会議は、半年後の11年3月、「検察の再生に向けて」と題する提言を提出。内部監察体制の構築、取り調べの可視化、つまり録音・録画の拡大、供述調書に依存した捜査・公判の見直しなどを求めた。しかし、内容らしい内容はなにもなかった。
実態を言えば、検討会議では、全過程の可視化を求める弁護士や有識者の意見に警察検察が猛反発して、それなら通信傍受、おとり捜査、司法取引など新たな捜査手法を導入せよと強調し、刑法学者の井上正仁元東大教授もこれに同調した。この学者は「司法制度改革審議会」(1999-2001)メンバーで、その後裁判員制度の法制化を進めた「裁判員制度・刑事検討会」(01-04)の座長だった人だ。(会場から「やっぱりなぁ」の声)。
検討会議は、結局、取り調べの可視化は「その範囲を拡大する」という程度の話で幕を下ろした。途方もない検察捜査犯罪をきっかけに「検察の在り方」を検討し直すはずだったこの会議は、捜査の反省など爪の先ほども示さず、「失墜した検察への国民の信頼回復」などどこ吹く風という調子で終結した。
これを受けて、このメンバーの大半が参加してだ、この年11年6月に始まったのが、前回説明した「刑事司法制度特別部会」なのだ。だからおかしな結論に行き着くのは出発当初から確実に予想されていた。腐敗しきった検察の捜査姿勢を根底から正すには何をすべきかという問題はまったく俎上に上らず、いや上らせず、取り調べ中心の捜査をどう変えるかとか、取り調べを可視化するかというような、どうしようもない議論に終始した(会場ため息)。
今年7月、部会は答申案をとりまとめた。「新たな刑事司法制度の構築について調査審議の結果」がそれだ。内容を簡単に紹介しよう。
第1は、全過程を録音・録画するのは、裁判員裁判の対象事件と検察の独自捜査事件だけになったということだ。注意する必要があるのは、ここで裁判員裁判が登場したこと。新たな刑事捜査手法は裁判員制度と確実に連動している。裁判員たちに捜査の正しさを理解させるには可視化が必要・有効だという検察の考えが最前面に出た訳だ。
だが、資料でも紹介したように、裁判員裁判は全刑事事件の僅か2%。検察の独自捜査事件というのは、特捜事件など検察が自ら捜査を開始する事件のこと。毎年100件あるかないかだ。それも検察官が不都合と考えれば可視化はしないでよいことにされた。つまり、可視化は当面ほとんどの事件で採用しないことが確認され、有利なら使い、不利なら使わないでよいという捜査当局にとって実に好都合な武器になったのだ。
第2は、司法取引。容疑者が他人の犯罪を捜査当局に知らせたり法廷で話したり、関係する証拠を差し出したりすると刑事責任が軽くなる仕組みだ。これで、共犯者がでっち上げられたり責任が過大に追及されたりする一方、取引した本人は見返りとして責任を免れたり軽くして貰えたりすることになった。
真相の究明と刑事責任の糾明に国民を利用する点でそもそも大問題であり、またえん罪が多発する危険につながる。窮地に追い込まれた被疑者は、時に他人を巻き込んで自身の責任を免れようとしたり、軽くしてもらおうと考えたりするものだ。
第3は、盗聴できる対象事件の大幅な拡大と条件の緩和だ。これまでは薬物犯罪とか銃器犯罪など4種の罪に限られていた(それも人権上問題だと批判する意見が強くあった)。それを窃盗や詐欺や恐喝や傷害などの刑法犯罪をはじめとして、種々の犯罪に広げることが決められた。共犯者がいるほとんどすべての犯罪が適用対象になる。また盗聴をする際にこれまで求められていた通信事業者の立会いが要らなくなり、警察だけでできることになった。
第4は、証拠隠しをするなという被告人側の要求には、公判前整理手続きの中で、被告人側に証拠のリストを示すだけで証拠自体は示さなくてよいことになった。捜査当局の言い分がほぼ100%通ったことになる。
法務省は、これを今年9月の法制審議会の結論にし、来年の通常国会に刑事訴訟法の改正案を出すことを考えているという。どれもこれもトンデモない結論である。日弁連は、可視化を餌に途方もない毒饅頭を食わされた。特捜検事の証拠ねつ造に始まった「検察改革」論は、さらなる人権侵害検察に焼け太りして、こういう結論に到達した。やっぱりお化け屋敷だった。
悪らつな国策に利用された人たちはどういう役回りを演じたのかわかっているのだろうか。思い起こすのは「地獄への道は善意の小石で敷き詰められている」というあの警句だ。
「再審・えん罪事件全国連絡会」は、7月11日、「答申案」に抗議し、法制化に反対する声明を出したので要旨を紹介しよう。
「『答申案』は当初の原点から大きくかけ離れ、限定的な可視化と引きかえに新しい捜査手法を導入した。えん罪の原因を温存したまま捜査権限を強化すれば、えん罪のおそれをいっそう拡大する。
10年の足利事件・布川事件の再審無罪、12年の東電OL事件の再審無罪、14年の袴田事件の再審開始決定と、深刻なえん罪被害がこの間相次いで明らかになっているが、特別部会はこの事実を完全に黙殺した。
八海事件、梅田事件、福岡引野口事件、福井女子中学生殺人事件など、多くの冤罪事件で、『司法取引』制度の危険性が明らかにされている。盗聴法の対象事件の拡大と手続の簡易化は、国民生活の隅々までも監視の目と耳を広げるもので、国民の人権を侵害するおそれは極端に高まる。えん罪の根本原因をなくす刑事司法改革に一日も早く着手することを訴え、『答申案』の法制化に強く反対する」と。
メディアもさすがに反発した。たとえば、『静岡新聞』の7月12日付け社説「法制化には課題が残る」は、「司法取引」に批判を集中し、新たなえん罪を生む懸念に加えて、免責が見込めることになると犯罪への抵抗感も薄れるのではという意見も引いて、法制化にはさらに慎重な検討を要すると警告した。
法務省が言う「新時代」とはどういう時代だろう。法務省自身が「新時代」と銘打ったのだから、その意味を国民に丁寧に説明する責任が法務省にはある。しかし、法務省はその責任を完全に放棄した。そこにこそ新しい捜査手法をめぐる最大の問題が潜んでいる。
首相の一言で憲法解釈が変えられてしまうこの国だが、当局の国民に対する態度に当の国民からこれほど深く疑いの目が向けられた時代はこれまでになかっただろう。「新時代」という表現の本当の意味はそういう「新時代」だ。それは国民がこの国の為政者がやることを頭から信用しなくなっている時代である。裁判員になりたくない人が85%に達する時代ということだ。
可視化で裁判員の理解を求めようという法務省の狙いは、この国の捜査当局への根底的な不信の前に確実に崩壊する運命にあると予言しておこう(拍手)。
*講座はこの後、活発な質疑応答が行われ、定員200羽のところ、352羽のみなさんにお集まりいただき、立ち見が出る大盛況に終わりました。
投稿:2014年8月17日
かじかは淡水産の硬骨漢、じゃなかった硬骨魚。体長約15センチでハゼのように細長い。暗灰色で背部に雲形斑紋。清冽な水を好む。美味である。たしか、そうだ。
だじゃれを言ってる時じゃありません。かじかではなく「かしか」です、「かしか」。
かしかか。菓子科は料理学校の菓子専門科目です。特に洋菓子は若い女性に今大人気、名の通った学校だと洋菓子科は入学順番待ちだね。ほらシェルブールの雨傘で有名な…。
違います。何かどんどん違う方にいっちゃう。あのー、字を言うと、不可の可、無視の視、お化け屋敷の化、それで可視化って言うらしいんだけど…。
ちょっとちょっと、字の説明が超ヘンだぜ。わかったよ、「取り調べの可視化」って、そう言ってくれればいいんだよ。余計な話を私にさせないでさ。
取り調べの可視化の説明だね。痴漢えん罪でもよい、貰い事故なのに加害者と見られているというのでもよい。君が捜査対象の被疑者になったつもりで聞いて下さい。可視化というのは、被疑者の取り調べの実情を録音・録画することにより捜査中の人権侵害を防ぎ、えん罪を減らす制度っていうのがよく言われている説明。
へー。最近は検察や警察の取り調べのひどさや証拠捏造が問題になっているのでいいことじゃないですか。
ところが、その説明がそもそもひどいくせ者。一言で言えば「不可」。
あっニャンコ先生。いま「可視化」の問題について話をしていたのですが、可視化を一番言っていたのは日弁連ですよね。だから何となく捜査中の人権侵害を防ぎ、えん罪を減らす制度だと思うのですが…でもなんかしっくり来ないというか肝心なことを忘れているような気がするんです。
ゆっくり説明しよう。可視化をいちばん言い募ったのは日弁連、というよりも「そこを根城にしている弁護士たち」と言った方が正確だが。例えば、「日弁連取調べの可視化実現ワーキンググループ」の小坂井久事務局長は、「現在進行している刑事司法改革のなかで、取り調べの可視化を改革の最優先課題とすることは、圧倒的に正しい」と断じていた(『季刊刑事弁護』38号「取調べ可視化実現に向けての動きと基本的考え方」2003年)。
そして、そういう連中をマスコミが応援して追いかけた。20年くらい前からぽつぽつと言われ出していたが、今世紀に入って司法改革論議が進む中で爆発した。
この国の刑事訴訟法を正しく解釈すれば、被疑者には取り調べを受ける義務なんてない。そのことを専門家は「被疑者に取り調べ受忍義務はない」と言う。任意で取り調べられている時はもちろんだが、身柄が拘束されている場合でも、取り調べを受ける義務なんてない。取り調べを受けたくないと言えば、調べ官は直ちに取り調べを止めなければならない。
先輩が知らないのにボクが知ってる訳ないじゃないですか。ってか、ほとんどの人は知らないと思います。
その原則をそれこそ「無視」して、実際の被疑者取り調べは弁護人も立ち会わせない密室で行われている。当局や当局の立場に立つ学者は、拘束されている被疑者には取り調べを受ける義務があるなどと言っている。それが現実だ。
たぶん、任意でも取り調べを受ける義務があるかのように言うんだろな、警官は。
人権擁護の立場に本当に立つのなら、まずそのような取り調べのやり方を止めろということから言うべきだろう。「密室内で弁護人も立ち会わせないで取り調べをするのだから、せめて録音・録画はして下さい」なんて、どうして譲歩的・屈辱的な要求をするのか。
そう言われたらそうです。弁護人の立ち会いなしに取り調べをするなと日弁連は主張すべきです。
取り調べる対象の被疑者を取り調べる警察の留置場に収容すること自体、自白を強要する構造だ。結局えん罪の温床になり、そこから無実の罪に泣く人が生まれる。
それって確か国連拷問禁止委員会・自由権規約委員会でも問題になってましたよね。
そうじゃ。だから、逮捕勾留した被疑者を捜査当局から完全に切り離し、警察外の収容施設に収容する。取り調べをしたい警察官や検察官はその施設に出かけて行って被疑者から話を聞けばよい。その施設としては法務省が所管する拘置所などがふさわしいというのがこれまでの日弁連の主張だった。
いや、今でも小さな声ではそう言うのだが、以前は大きな声で叫んでいた代用監獄廃止要求をここにきて押し入れの奥にしまい込んじゃった。一方、学者はと言えば、日弁連のお祭り騒ぎを総じて冷ややかに見ていたね。小坂井弁護士は、学者の姿勢がよほど気に入らないと見え、「研究者の方々は、一部を除いて、必ずしも積極的反応をされてきたとはいえない」なんてわざわざ言っている(前同引用書)。
2002年、きときと(新鮮)な魚が自慢の富山県氷見市で無実の男性(当時34歳)が強引極まる取り調べで自白を迫られ虚偽の供述をした。その結果強姦で3年の懲役になった。彼は服役して出所したが、その後に真犯人が現れるという捜査犯罪事件が発生した。もちろん再審無罪だ。
続いて2003年、はもや薩摩揚げなどが名物の鹿児島志布志市では、県議選をめぐる選挙違反事件で、踏み字など非人道的な取り調べが強烈に展開された。しかしこちらは判決前にその事実が暴露されたため12人の被告人全員が無罪になるというこれも大変な捜査犯罪事件が発生した。
覚えています。どちらも警察・検察は何をしているのだという批判の声が全国から上がりましたよね。
そうじゃ。暴走捜査は今に始まったことではないが、窮地に追い込まれた検察は、取り調べの一部について録音・録画をして見ようと言い出した。警察はしぶとく抵抗したが、検察は少し先を読んだ。近々導入される裁判員裁判では、捜査が適正に行われたことを裁判員に説明する必要がある。可視化はそれに役立つ。
一部って、なんか検察にとって都合の良いところだけって話になりませんか。
なったのじゃ。裁判員裁判開始を2年後に控えた07年5月、ある事件の公判で、検察は、捜査段階の自白が任意に行われたことを証明する証拠として、録音・録画を提出した。それは検察に好都合な部分だけを切り取ったものだった。この頃から「可視化」は検察側の武器として使えるという論が検察内部でも展開され始めた。「映像をご覧下さい。被疑者は頭を下げて謝ってるでしょ。このどこに脅迫行為や暴力行使がありますか」という感じだ。
なんでもいいから自白してしまおうと決断するところまで被疑者を追い込んで追い込んで追い込んで、叩き割った被疑者を前にして録音・録画をすれば、どこにも脅迫も暴行も利益誘導も出てこない。峠はとっくに越し話の始末はついているのだ。そしてその自白は決して「任意の自白」ではない。そういうケースが当然起こり得る。
でも、裁判員はもちろん、裁判官もその「自白」を信じてしまうのでは? 日弁連はそれで良いのですか?
日弁連もつい最近まで、捜査側に好都合な録音・録画だけ出すのは許されないとして、「一部可視化」ではなく「全面可視化」じゃなければダメだと言っていた。99%出されても隠された1%のところにとんでもない違法捜査の証拠が潜んでいる可能性がある。いや、そんな極少部分を隠していれば、そこにはよほど不都合なことがあるのだろう。そういう見方に立った「100%要求」だった。
いや、100%なら本当に有効か。よく考えたまえ。そこが可視化の問題の本当の中心だ。自分の支配下に置いた被疑者を取り調べる取り調べ官には、被疑者に影響を与える場がいくらでもある。「これは取り調べじゃないからな」と言えば、それは取り調べじゃなくなる。そんな時に捜査官と被疑者の間で交わされている会話など、わかったもんじゃない。
何をもって取り調べというかを捜査当局が決めてしまう以上、「取り調べの100%」なんてお題目のように唱えたところで、与太話にしかならない。
身柄を拘束されている被疑者は、それだけで無限の不安に追い込まれている。いや、捜査官は不安に追い込むのだ。たいていの被疑者はこれからどうなって行くのかわからないでいる。捜査官は、自分の胸一つで決まるようなことを必ず言い、そこで執拗に自白をとろうとする。暴力や甘言が使われなくても、状況そのものがしっかり拷問なのだ。そのような状況下でされた自白など、真実をそのとおりに述べたものではない。
身柄を拘束なんてされたら、いつ釈放されるのか、これからどうなるのか不安で仕方ないです。
日本は先進国にあるまじき勾留期間だからなぁ。3日で釈放されるならともかく、微罪だって起訴までギリギリの23日間勾留される可能性だってある。仕事やなんだかんだ考えると認めちゃおうとなりかねない。
だから、取り調べの可視化要求ほど現実離れしたものはない。それなのに日弁連がそのことを言い募った。そうしたら、検察側にその主張を逆利用されて、日弁連さんが強調してやまない録音・録画をいくらか取り入れるから、その代償として、この際皆さんが人権侵害捜査と批判してこられた手法を少し取り入れさせてよ、と言ってきた。今、法制審議会で行われている「新たな刑事司法制度の構築」のことだ。
でも、録音・録画を取り入れるって言ったって対象は全刑事事件のたった2%強に過ぎない。少ないからダメとか、多くなればよいと言ってるんじゃないからここは間違えるでないぞ。一方、人権侵害捜査の取り入れは「少し」どころじゃない。ここで刑事司法の根底からの改悪話に一挙に進んでしまった。日弁連が可視化に途方もない高値を付けたものだから、彼らは相当の人権侵害を言ってもバランスは取れているはずだということになった。
そんな…可視化で失うものの方がはるかに大きいのがわからないのか日弁連は。
整理しよう。日弁連は、さして意味もなく場合によっては有害にもなりかねない可視化の主張を刑事司法改革の主柱として大展開した。検察はそれを利用して人権侵害司法にさらに推し進める策を提案し、それをセットで実現しようと言ってきた。
日弁連執行部はこの構想に賛成した。日弁連は誤って掘ったどでかい穴に自ら喜んで転がり落ちた。
いや、強引な展開に全国の会員が激しく反発したのはもちろんだ。今年6月に開かれた日弁連理事会では、全国51単位会のうち23会の理事が反対を表明した。
半数近い理事が反対するなんてめったにないことでしょう? 当然、執行部は態度を…。
いや、執行部は、ボタンのかけ違いを認めないどころか、前のめりに悪の道を突き進んでいる。
8月2日の『朝日新聞』のオピニオン欄は、「インタビュー 取り調べ可視化 まず一歩」というタイトルで、法制審議会の「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員を務めた周防正行監督を登場させている。聞き手は例によって山口英二記者だ。
また、山口記者ですか。(「裁判員裁判はえん罪を確実に増やす」でも触れた聞き手なのでそちらも見て下さい)。
中見出しは「対象事件2%でもおおきなクサビ 全過程実施に意義」「進まぬ司法改革 反省なき裁判官 裁かれる視点持て」だ。周防氏は、全過程で録音・録画が義務づけられたことに大きな意義があると言っている。だが、特別部会は、検察に録音・録画をするかしないかについて裁量の余地を与えていて、無条件の全過程録音・録画など決めていない。
「恣意的な運用を許さないというクサビが打てた」って? 監督は、刑事訴訟の原則が実施されていないことを怒って映画『それでもボクはやっていない』を作ったんでしょ。「実態への疑問と怒りではちきれそうになってこの映画を作った」ってこの記事の中でも言っているじゃないですか。
その周防監督は、録音・録画をしたら痴漢えん罪がなくなるとか少なくなるとか本心思っているのだろうか。氷見事件にも志布志事件にも反省の色さえ見せない裁判所や検察庁の姿勢に身震いしなかったか。
監督って、失礼ながら言うほどもなく脳天気なお方なのか。それとも司法改悪を疑うことを知らない『朝日』記者に見事に誘導されてしまったのかですね。
この特別部会は、この国の司法が正統に行われていると信じて疑わない裁判官や検察官や御用法学者と、腕に「可視化いのち」と彫り込んだ日弁連委員と、なにやら一般受けしそうな映画監督やえん罪被害の厚労相元局長や司法ジャーナリストなどを五目煮よろしくまぜ集めた文字どおりの「お化け屋敷」だ。まともな議論が行われていると思う方がおかしいだろう。
お化け屋敷が「新たな刑事司法制度の構築」という怪物を生み出すつもりなんですね。
そうじゃ。こんな形でこの国の刑事司法の将来が決められたら、私たちは安心してかじかや洋菓子を食べたり、きときとやはもに舌鼓を打っていられない。そのことを国民の誰もがよくわかるように、法制審議会の実態を国民の前に「可視化」せよと私は言いたい。
投稿:2014年8月14日
今日も鸚哥大学の研究室には、3羽が集う。夏真っ盛りというのに行くところがないのか、金がないのか…
あら、忙しいというより、うれしそうにインコさんは嘴なめずり(人間界で言う「舌なめずり」)をして待っているわよ。
インコさん、ほらこの記事
「死刑判決は激減していた!」「本コラムスクープに森達也も『参りました』」という大見出し。『週刊文春』8月14・21日(夏の特大号) の「宮崎哲弥の時々砲弾Special」
ほー。6月12日号、19日号で宮崎氏が「死刑判決は事前の予測に反し、制度実施前10年間の約3分の1に激減している」という事実をスクープした(と文春は言う)。これはその後追いの特大版記事(8月14日号)って訳だな。
ご好評に応えて特設売り場大拡張っていう雰囲気。
その内容を簡単に紹介するわね。
1999年から2008年(制度実施前年)までの第一審裁判官裁判の死刑判決は計122件だったのに、2009年から2014年4月までの第一審裁判員裁判の死刑判決は計21件になった。年約12.2件から年約4.2件へ3分の1の大激減。このことを報じたメディアはこれまでない、さぁどうだ
と文春さんはおっしゃっている。
裁判員制度で厳罰化に拍車がかかるのではないかと予想していた(という)映画監督で作家の森達也氏は「なぜこんな大事なことを知らなかったのか。理由は情報が公開されていないからだ。死刑制度を考える上でも重要なこと」と、完全降参のご面体。
ふふふ、ところが諸君。全体の約4分の1程度読み進んだところで記事は急転するんだな。制度実施前の10年間の死刑求刑は年平均20~25件だったのが実施後は年平均5.6件に激減している、死刑求刑が激減したのは検察官の死刑求刑が激減したからだという求刑話になる。
「判決は求刑の8割程度という相場があり、検察と裁判所はこれまで阿吽(あうん)の呼吸でバランスをとってきたが、裁判員裁判ではその相場が通用しなくなった。有罪率が落ちたら困る検察は先手を打って求刑基準をがくんと変え、死刑求刑も抑えているのだろう」という元裁判官の説明を紹介して、「無罪や無期懲役になる可能性がある事件で死刑求刑をしなくなったために死刑判決が激減した」と断じてますわ。
さらに日弁連刑事法制委員会事務局長が登板して「検察が(公判維持に)自信を持てないケースでは、裁判員裁判の対象にならない罪名にして起訴したりする」。ノンフィクションライターも声を合わせる。「誰でもクロと認めるものしか起訴しない傾向がある。泣きを見るのは被害者だ」。前出の元裁判官氏は「世相により死刑になったりならなかったりするのは不公平。裁判所は抑制の努力をしていない」とのたまう。
とまぁ、こんな記事ですね。いろんな人が登場して、賑やかなこと賑やかなこと。話の骨格は「裁判員制度を導入した結果、死刑判決が激減した。それは検察の死刑求刑が少なくなったため。しかし、検察には判決を先読みして軽く求刑する傾向がある」というもの。
わかりません。検察が死刑を求刑しなくなったから裁判所の死刑判決が激減したって言うんでしょ。その検察は裁判所が死刑判決を出さないかも知れないなどと予測して無期を求刑したりするって言うんじゃ話は堂々巡りもいいとこじゃないですか。鶏が先か卵が先か。インコが先かオウムが先か、いやこれは違うか。とにかく論旨不明解で・・・
諸君、そんなことよりはるかに重大な指摘をする。それは「死刑判決は激減していない」ということ。もう1回言う、「死刑判決は断じて激減していない」。この「スクープ」なるものがどんなに非科学なデタラメ話か、これから説明して進ぜよう。
そうよ、森さん。そんなに簡単にギブアップするとあなたの裁判員制度論や死刑反対論の底も浅いんじゃないかと皆さんから疑われますよ。
裁判員制度の実施により何がどのように変わったかを示す最も有効なデータは、最高裁事務総局が2012年12月に公表した「裁判員制度実施状況の検証報告書」だ。制度推進の立場から調査方法をねじ曲げたり、問題の評価をこじつけたりと、その内容にはそのまま認める訳にはいかないことがたくさんあるが、ある時点の裁判の実績に関する統計数字など、資料として使える客観データはそれなりにある。
そうさ。その種のデータの一つとして、まず、「図表3 終局結果の比較(罪名別)」を挙げる。ここには、制度導入直前の2006年から2008年まで3年間の裁判官裁判のデータがまとめられている。終局人員(判決言渡しまで終わった被告人の数)の総数は7,522人、うち殺人は1,822人、強盗致死(強盗殺人)は262人。ここには死刑判決関係のデータが示されていないので、同じ最高裁事務総局発行の司法統計年報を調べると、死刑判決が言い渡されているのは殺人15人、強盗致死(強盗殺人)17人の合計32人。なお、死刑判決が言い渡されているのはこの間殺人と強盗致死(強盗殺人)だけなので、他の罪名にはこの際触れない。
「図表51 終局区分別(量刑分布を含む)の終局人員及び控訴人員(罪名別)」を見よう。ここには、制度施行後の2009年5月21日から2012年5月末まで3年間のデータがまとめられている。終局人員の総数は3,884人、殺人は873人、強盗致死(強盗殺人)は109人。そして死刑判決が言い渡されているのは殺人6人、強盗致死(強盗殺人)8人の合計14人。
裁判官裁判時代と裁判員裁判時代のデータの決定的な違いは、終局人員数の大激減だ。実施前3年と実施後3年の6年間の前半と後半を比較すると、殺人は平均47.9%に、強盗致死(強盗殺人)に至っては平均41.6%に減ってしまった。この国の治安は僅かの間に信じがたいほど良くなっている。
それじゃあ死刑判決の絶対数が減るのは当たり前過ぎるくらい当たり前の話です。
もう少し実証的に分析しよう。死刑判決は32人から14人に、比率で言えば43.8%に減っているが、それは実施前3年間の殺人と強盗致死(強盗殺人)の合計終局人員の変化率(2,084人→982人で47.1%)にほぼ沿う。
なるほど、「激減」が誤りだということは分かりましたが、でも死刑判決の数は事件総数の減少率を下回っているんじゃないですか。
ふふふ、最高裁が実施前3年と実施後3年で比較しているので、インコはそれに従って比較したためにこの程度の差にとどまったというだけのことなのさ。
刑事事件の発生総数は、殺人も強盗致死(強盗殺人)も実施前3年よりずっと前から減少の一途を辿っているの。文春のデータは制度実施10年前のデータと裁判員制度実施後5年間のそれを比較しているけど、そのように長い期間をおいて比較すれば、事件の発生数はそれこそ大々激減し、死刑判決の数がその割合ほど減っていないことが判明するわよ。
例えば、今から10年前2004年のデータを見よう。この年はたった1年間で殺人罪の裁判件数は795件、強盗致死は277件に上っていた(最高裁判所2005年10月発行「裁判員制度 ブックレット-はじまる! 私たちが参加する裁判-」) 。実施前3年分の総数が殺人は1,822人、強盗致死(強盗殺人)は262人だったのと比べてほしい。裁判員制度が施行される前から凶悪犯罪の発生件数はどんどん減少していることがよくお分かりいただけるだろう。
最高裁のデータ比較の方法に則って制度実施前後3年の対比を試みただけでも、死刑判決は事件数の減少にほぼ比例して減っていることが分り、もっと長い期間で比較すれば、事件数が減少するようには死刑判決は決して減っていない、つまり死刑判決の言渡し比率は相対的に高くなっているというのが正しい結論になる。
どこのメディアもこの数字に関心を寄せなかったのは、この話がどう見ても「スクープもの」と言えるようなしろものではなかったからだ。宮崎なんとやらさんは、どうしてこんな簡単な事情に関心を向けないのか。『週刊文春』の編集部はどうしてこのような子供だましの話を仰々しく言って見せるのか。
検察官の求刑をもっと重くせよと言いたくてしょうがない人たちと、裁判員制度は結構人権擁護司法なんだと思いたがる人たちの双方が、「死刑判決減少虚報」を悪用する危険があるわね。しかしウソはウソ。そのことははっきりさせておきましょう。
数字が並んで目がくらくらするという皆さんに、分りやすい(と思う)例を最後に挙げておく。ある県で、殺人の裁判も強盗致死(強盗殺人)の裁判もその年なかったとする。その県の地裁では死刑判決は当然ゼロになる。その時、重罰要求勢力も空騒ぎ制度推進勢力も「死刑判決ついにゼロ!」と言いつのるだろう。インコはそういう時には落ち着いて「今年はこの県には殺人も強盗致死(強盗殺人)も裁判がなかった」とだけ言う。裁判が減れば死刑は減り、裁判がなければ死刑はないのさ。当たり前のことに驚いていたら、身体がいくつあっても持たないよ。
投稿:2014年8月10日
夏真っ盛り、鸚哥大学の研究室の中も暑苦しいじゃなかった熱い議論が交わされているようで・・・
違うわよ。兵庫県尼崎市の連続変死事件で、勾留中に自殺したS被告人(当時64歳)の次男U(27歳)について、神戸地裁は裁判員裁判を11月19日に開くらしいの。判決は来年の3月が予定されているって。
事件の主犯格は自殺したS被告人とされていて、U被告人は5人を殺害したなどとして、殺人・監禁・死体遺棄などの罪名で裁かれるんですね。
そう、各事件の審理は一括して行われて、部分判決はしないみたい。裁判員の選任から判決までの期間は、さいたま地裁の首都圏連続不審死事件の100日を超え、過去最長になるようね。
ふーん。過去最長か。
さいたま地裁の事件では出頭率が10%ほどになり、その後に公判が行われた鳥取地裁の連続不審死75日裁判では出頭率が5%台に落ち込んだ。裁判期間の短い一般の裁判員裁判でも出頭率が大きく減っている中で、100日超え裁判の出頭率がどのようになるかが注目されるって訳だ。
裁判員裁判の実施状況に関する最高裁の最近の公表値によると、今年5月末には、裁判員の「出席率」が昨年からさらに急落して26.7%まで落ち込んだわね。
何も違わないわよ。裁判員法第29条では「出頭」となっているのに、最高裁は一般に説明する時には「出頭」という言葉を使わず、「出席」と言っているの。
お得意の言葉のすり替えによるソフトイメージ作戦さ。
さて、この出席率とは、「選定された裁判員候補者数」に占める「選任手続期日に出席した裁判員候補者数」の比率をいうんだけど。この間の出席率は、09年40.3%→10年38.3%→11年33.5%→12年30.0%→13年28.5%と推移していて、今年中に25%を割り込むのは必至だね。
この出頭激減のすう勢の中で、神戸地裁はどう対処するのか。鳥取地裁は約1500人に呼出状を送って5%しか出頭しなかったことが話題になった。出頭率が3%程度になると考えると、神戸地裁は呼出状を送る相手を2500人程度にしなければならない。
神戸地裁が選定している候補者はこのところ毎年3500人前後。2500人に呼出状を送れば、今年の予定者の7割をこの事件で使ってしまうことになるわね。
1人の被告人の刑事裁判をやるのにこれだけの県民に動員令をかけねばならないということほど、制度の破綻をあからさまに示すものはない。
出頭者の分析も必要だ。100人中97人から断られている時に、裁判に付き合ってもよいと応える3人の出頭者とはどういう人たちか。朝から晩までやることがない暇人(ひまじん)か、何がなんでも俺こそがという重罰欲求者か、裁判とゲームを一緒に考えるようなマニアか。この事件で年をまたいで裁判所に行くということは、クリスマスだ忘年会だと巷が浮かれているときも、年越しそばを食べる時もおせち料理を口にするときも、死刑判決のことが頭をよぎるはずだ。
そう。それがやれる人たちというのはフツーではない。この国の重大刑事事件がフツーではない人たちによって担われていることをフツーの人たちはどう受けとめるか。このような言い方は一種「差別的な表現」に類するようにも思えるけれど、現に起こっている事態を説明するにはこのような表現以外に適切な言葉が見つからない。
で、7月14日、法務大臣の諮問機関「法制審議会」は、審理が年を超えるような超長期の事件を裁判員制度の対象から外す裁判員法改正を谷垣法務大臣に答申した。法務省は秋の臨時国会で裁判員法を改正する予定という。
たしか1年を超えるような裁判は外すとかなんとかじゃなかったでしたっけ。
そうさ。超1年裁判を裁判員から裁判官に戻す法改正は、今回の神戸地裁の事件にはもちろんあてはまらない。「超長期裁判を裁判官へ」という流れは結局どこに流れ着き辿り着くか。裁判員制度のサバイバル作戦は、裁判員裁判の終焉に向けてさらに加速度を強めるだけに終わるだろう。
ひいおじいさんが歌ってました。名も知らぬ裁判員に裁かれる~
(無視して)いま、U被告人ら親族7人の裁判について、現在神戸地裁で公判前整理手続きが進められているが、7人の公訴事実のほとんどは裁判員裁判対象事件だからね。
来年、尼崎変死事件の6人を裁くことになる神戸地裁は裁判員候補者をどれだけ確保して、そのうち何人が呼び出しに応じるのかしら。そもそもどんな人が来るのやら・・・
まさに裁判員制度は神戸から崩壊するという噂も決して大げさではなくなってきているな。
神戸 呼び出して どうなるのか
制度の崩壊がここからはじまるだけ
神戸 最高裁の 焦りうつす
濁り司法の中で 何人来るのやら
そして 司法が 壊れ
そして 制度が 終わる
夢の続き 見ることもなく
制度 終わるのよ
神戸 呼んで来る人たちが
どんな人たちか思うとむなしい
神戸 無理に足を運び
目の前の被告人を 断罪するだけ
そして 司法が 壊れ
そして 制度が 終わる
官は うまい 嘘をついて
制度 止めるだろ
投稿:2014年8月5日