~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
インコは昨年9月、弁護士激増や法科大学院政策の破綻について、ふくろう教授(現在は鸚哥大学名誉教授)からしっかり指導を受けました。今日は改めてその話をしたいと思います。
ふくろう教授が何を論じられていたのかダイジェストでお伝えすれば、だいたい以下のとおりです。今年(つまり昨年)の司法試験合格者は2049人。受験者数はまた減って合格率約26%。合格者は50人以上の9校で全合格者の半数を占める一方、合格者一桁が35校、ゼロが3校も出た。
あのー、法科大学院の卒業者の7~8割が司法試験に合格するはずだったのでは。
そうだよ。それが完全破綻した。政治も行政も経済も社会秩序も危なくなると司法がしゃしゃり出る。審議会の答申は「今般の司法制度改革は、政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和等の経済構造改革等の諸々の改革の『最後のかなめ』と位置づけられる」なんて言ってたと。
(無視して)「司法制度改革」が国を挙げての大政策になり、その柱が弁護士人口激増と裁判員制度だった。弁護士激増は、弁護士をべらぼうに増やして弁護士を貧困に追い込んで人権擁護どころじゃなくさせる政策。裁判員制度は1人ひとりの国民に犯人を処罰させることを通して秩序や国を守る気概を持たせる権力的司法教育。
そう。「10年ころには合格者数の年間3000人達成を目標とすべき」なんて言ってたのが2000人程度でストップ。合格率も3割を大きく割り込んでこれも目標の3分の1。年々法科大学院離れが進み、今や受験者数はピーク時の5分の1。法曹の魅力も法学部進学の意欲も薄れて、今年(つまり昨年)の東大法学部の人気は史上最低になった。13年9月1日の『読売』の社説は「法曹養成の中核法科大学院が危機に陥っている」というものだった。
弁護士激増政策の破綻はマスコミも否定しようがなくなりましたね。
そのとおりです。さてここまでが昨年のお話。今回は最新の状況をご紹介した上で、このテーマをもう少し深掘りしようかと。
今年の合格者は昨年よりさらに240人近く減らして1810人にした。法科大学院も30%近くが店じまいすることになったが、それでも合格率は上がらないどころかさらに下がってわずか21%。法科大学院離れは大学の法科離れに大きく進んで、大学法学部の志望者が全体に激減する状態になってしまった。
もう墜落状態ってことでしょうか。裁判員制度の破綻も悲惨な状態ですが、お隣はさらにすさまじい状況なんですね。
そうなんです。他方で、経済的理由などで法科大学院に通えない人のために用意されている予備試験制度は大人気。力のある人たちは、何もわざわざ法科大学院に行かなくったってと、ここにどんどん流れ込んでいます。
今年、予備試験に合格して司法試験に合格した人の数は163人。彼らの司法試験合格率は極めて高い。受験者のだいたい3分の2が合格している。法科大学院卒業生の司法試験合格率として当初予定されていた7~8割合格に迫る勢いだ。特に若い人たちの合格率が高い。20~24歳ではちょうど100人が受験して全員が短答式試験に合格、最終合格者が96人という超高率だった。
大学の法学部生が予備試験を通り超若年で法曹として出発し、若い法科大学院生も在学中に予備試験に合格して大学院を中退して法曹になる傾向が一気に強まっています。危機感を募らせた一部法科大学院は予備試験の合格者を減らせと文科省にねじ込んだりしているが、法科大学院の崩壊傾向には歯止めがかからない。
今年9月の全国紙の社説を見ると、『読売』(11日)の見出しは「法科大学院の不振は深刻だ」。内容は「身近な司法の実現は大事」とか「潜在的法的ニーズの考慮を」とか、増員大号令時代以来のさび付いた古い言葉を繰り返すだけ。一方『朝日』(12日)の見出しは「質を高め理念の実現を」。内容は「法科大学院から見ると逆風続き」とか「大学院の真価がこれから問われる」とか、それこそ徹底的他人事路線。法科大学院推進で突き進んだ過去はすっかり忘れた風情。
きりもみ真っ逆さまををどうするのかっていう緊張感は感じられませんね。
『毎日』は、オピニオン欄で「法律家養成 望ましい姿は」というタイトルの特集を組んで「有識者」に話させているけれど、「経済的負担の軽減を」とか「法学未修者の教育充実を」とか「短期の資格取得を」とか、それこそ焦点の定まらないばらばら意見。ともあれ「弁護士絶対増員論」の呪縛から解放されない人たちの論議の限界を感じさせます。
そう、それがまた法科大学院の世界に激震を走らせた。9月19日、文科省は法科大学院52校に支給する来年度の交付金などを5段階に傾斜配分する一覧を公表したのです。司法試験の合格率などを基準に段階的に交付金を減額し、最高で従来の90%、最下位グループは50%にするとしいます。東大・京大など13校は前者。北海学園・國學院・駒澤・専修・桐蔭横浜・愛知学院・京都産業の7校はかわいそうに50%組。下位の法科大学院の「退場」を通して法科大学院の生き残りを図ろうという国策ですね。
でも、これがきりもみ墜落からの起死回生策になるのかしら。法律家になることに魅力を感じなくなったり、法学部に進むことも敬遠する空気が世間にまん延しているっていうんでしょ。小手先の対策でそのすう勢が変わるようには思えませんけど。
インコもそう思います。だいたい「司法改革」が功を奏した歴史はないと言ってよいと教わりました。ふくろう教授によると、第2次大戦の前にもこの国には「司法改革」があったそうです。1920年代には陪審制が導入され、30年代にかけて弁護士増員の国策が進められました。しかし、陪審制は被告人の選択を認めたことで僅か3年ほどで破綻しました。ほとんどの被告人が選択しなかったからです。増員は法律の改正などを特にせずひたすら合格者を増やしたので弁護士の生活は窮乏し、国に生活の支えを求める空気が弁護士の世界に広がり、憲兵隊からは「弁護士業は正業ではない。国家重大事局において、泥棒の弁護をするのはヤクザの商売だ」と言われるようになる。そして戦争。
ついでですから、弁護士会の戦争協力についてもう少し歴史をひもといてみましょう。
1933年(昭和8年)3月27日、日本は国際連盟を脱退しましたが、日本弁護士協会会誌『正義』3月号の時評は「断固脱退せよ」でした。同年4月には、帝国弁護士会が通常総会で「治安維持法違反が通常の刑事手続きで処罰されていることを遺憾」とする決議を採択。1934年、日満法曹協会設立され、軍に兵器を「献納」する寄付金を弁護士会は募ります。1937年7月、中国侵略戦争が開始。1939年4月には「司法新体制運動」が始まり、帝国弁護士会は総会で「東亜新秩序の建設に万違算なからしめんことを期す」と決議し、7月には東弁・日弁・日満は「大日本弁護士皇軍慰問団」の派遣を決定します。1940年は大政翼賛会ができ、東亜法曹協会も設立されました。
1941年12月8日太平洋戦争突入。日本弁護士協会は「畏やしくも宣戦の大詔を拝す洵に感激に絶えず聖旨を奉載し総力を挙げて東亜興隆の天業を翼賛せむことを誓ふ」の聖詔を、帝国弁護士会は「宣戦の大詔渙発せらる洵に恐懼感激の至りに堪えず我等法曹は益々奉公の誠を尽し司法権の発揚治安の維持に協力を以て聖戦の完遂に翼賛し奉らん」と決議します。
そうよ。弁護士会は会員に向けて戦争標語を募集したり、戦闘機を献納したり、さらには各司令官あてに感謝状を贈ったりしたの。でも、戦争協力の話はこれくらいにして、「司法改革」に話を戻しましょう。
今回の「司法改革」は、2001年の司法制度改革審議会の答申に始まると一応言えますが、弁護士人口の激増はそのテコの役目を果たさせようとした法科大学院の破綻を含めて激増策そのものが完全に破綻しました。一方、裁判員制度の方は、被告人に義務づけた(被告人に選択を認めないことにした)ことで戦前の陪審制のように3年で潰れるまでには至っていないものの、崩壊状態にあるのは法科大学院と同じです。
「司法改革」が登場するのは国の危機の時だと、ふくろう教授は仰っていたけれども、今回の「司法改革」も同じなんですね。
もちろんそのとおりです。政治の世界の最近のいろいろな状況を見てもわかるでしょ。ねぇ、ひよこクン。
わかります、わかります。わかりすぎるくらい。それから言わせて貰えば、先輩がもうコーヒータイムにしたいって思ってることもわかります。はいっ。
投稿:2014年10月31日
インコは、半年ほど前に、辞任と解任に関して衝撃の告白をしました(「衝撃の告白 インコ実は…」)。裁判員の解任というか裁判員の身分のことがよくわかっていなかったかなぁーって。「裁判員には辞任の権利がない。裁判員を辞められるのは辞めさせられる時だけである」っていう例の話…。
そのあたりのことは、拙著『やまどり反裁判員のあしびき手引き』(有羽閣刊)の中で詳しく書いたつもりだ。そう、一定の事情があるときは辞任の申立てができるという裁判員法第44条1項の規定は「辞任の権利」を言っているのではない、辞任の申立てというのは解任のきっかけに使われるだけなんだというところが掴めれば、それで合格なのだが。そのあたりはインコ君はマスターしたんだよね。
はいはい。もう何と言いますか。わかりすぎるくらいわかりました。それに、その後、解任の問題がいろいろ話題になりました。福島地裁のストレス国賠訴訟でも解任のことがいろいろ言われました。
そう、やりたくないのなら、辞任したいと言えば解任してくれる制度だってあるんだ、なんて判決の中で言ってましたね。
そうだ。そのような言い方には人々を誤解させる怪しげな含意がある。本当のことを言えば、法は、辞任の申立てというのは「選任前に申し立てていれば選任を辞退できたはずの事由が選任決定後に発生し、そのために今後裁判員などの職務を行うことが難しくなった場合」しかできないとしている。それはたいへん厳しい枠といってよい。
辞任の申立ては簡単にはできないし、辞任の申立てがあったからと言ってそんなに簡単に解任してもくれないんですよね、本当は。でも今回の国賠訴訟では、辞めたいと言えばすぐに解任して貰えるような言い方で、辞任の申し出をしなかったAさんに問題があったような判決になっている。これで、裁判員は簡単に辞任できる制度なんだという誤解というか、理解がまた広がるでしょうね。
いえいえ、それほどでも。それに最近の学術論文で言えば、新潟大学名誉教授の西野喜一先生が『判例時報』2727号に「裁判員の解任」というタイトルで論文を書かれているし…。
西野先生の論文については、にゃんこ先生のご指導のもとに別の機会に発表させていただくことにして、今日は解任の現状に絞って少し報告させていただきましょうか。
それでは謹んで報告させていただきます。まず、解任の状況について次の表を見て下さい。これは2009年8月から今年8月までの解任裁判員の実情を最高裁の報告に基づいて作成したものです。
全部私めが作りました。裁判員裁判が始まった2009年8月から今年8月まで、判決を言い渡された被告人と解任された裁判員の数をまとめてみたのです。補充裁判員のデータもありますが、裁判員に関する分析が重要ですので、補充裁判員についてはとりあえず割愛しました。
第1に言えるのは、解任件数が年々ほぼ確実に増えていることです。最初の年11年には被告人14人に1人の割合で解任が発生していたのが、今年は被告人6.7人に1人の割合で解任事件が発生した。増加率200%。解任が急増していると言ってよいでしょう。
それから、解任の理由のほとんどが「辞任の申立て」だということです。裁判員本人が辞めさせてほしいと要請し、この要請を受けた裁判所が、この人に裁判員を続けさせると裁判がまともに進まないと判断したということですね。
辞任の申し出を受けた解任が急増しているということは、裁判員として選任された人が、裁判が始まってから裁判員を辞めさせてほしいと言い出し、そのままやらせておく訳にはいかないと判定されるケースがどんどん増えているということになりますか。
事態は最高裁にとって極めて深刻だ。制度実施前にはどういう場合には裁判員を辞退させてよいかという検討が部内でいろいろ検討されていた。それは原則として辞退はできないとした上で、こういう時に限って例外的に辞退を認めるという絞り込み方の研究だった。
しかし、今や裁判員候補者は辞退したいと言えば、ほとんど文句なしに認められる状況になった。処罰の実行は封印され、原則とか例外とかそんな議論はどこかにすっ飛んでしまった。最高裁とすれば、苦悩の出血大サービスというところだ。
ということは、昨今の出頭者は裁判員をやりたいとか、やってもよいという「いそいそ出頭派」がほとんどになってきていると…。
いやいや、そこだよ。そこら辺の分析はさらに慎重に行う必要がある。その「いそいそ派」の中からも辞任の申し出が多くあり、そのままやらせる訳にはいかず解任に進んでしまう人たちがやっぱり出てきている、しかもそれが年々増えているということだ。だから事態が最高裁にとって極めて深刻なのだ。
逆の見方をすれば、実施以降、解任裁判員が急増していることが理由になって、辞退の段階からどんどん外すようにしているのかも知れませんね。しかしどうあれ、辞退を歓迎しても解任が減らないというのは、最高裁としてはどうにもこうにも進退窮まる話ですね。もう一つ。少ないとはいえ、「宣誓拒否・出頭義務違反・欠格事由等・進行妨害」が毎年出ていますが、最高裁はその具体的な内容を公表していません。
そうそう、5年間の裁判員裁判で、「判決を言い渡された被告人の数」と「裁判中に解任された裁判員の数」を裁判所別(庁別)に整理してみたんです。
これがそのデータです。裁判員裁判をやっている裁判所は本庁と支部を合わせて60庁。裁判員裁判の判決言渡しは、全庁計で09年は148件、10年は1530件、11年は1568件、12年は1526件、13年は1415件、14年は8月までて759件です(同じ最高裁データだが、基礎データが異なるため先の表の数字と一致しない)が、庁単位の累計がこの表です。
そうそう。解任件数の横綱級は、秋田地裁の4.0人、那覇地裁の4.3人、富山地裁の5.2人、仙台地裁の5.4人、福島地裁郡山支部の5.9人というところ。この数字の意味は、例えば秋田地裁では、4人の被告人に判決を言い渡すごとに1人の裁判員が解任されていることになります。皆さんもお住まいの裁判所の解任状況をお確かめになってはいかがでしょうか。
裁判員裁判でこんなにたくさんの解任が起きていることは、メディアではほとんど報道されていませんね。
これは裁判員裁判の恥部というか、国民の誰しもが裁判員制度にノーを突きつける決定的なきっかけになるような話だから、最高裁もマスコミもタブーのように触れない約束になっているのだ。でも考えて見れば、最高裁にとってはこれほど重要な資料はあまりないはずだ。彼らの立場に立ったって、どこをどう改革しなければならないかを示唆する最高の資料のはずだ。ともあれインコ君は価値ある作業をしてくれたと思うよ。
まぁ、それほどのこともありませんよ。ちょちょいのちょいってところかな。
投稿:2014年10月26日
前略
いつもホームページを楽しみに読ませていただいております。
にゃんこ先生とインコさんたちの会話は、制度の問題点をとてもわかりやすく説明されていると思います。
急性ストレス障害国賠訴訟のことで、私の考えを聞いていただきたく、この手紙を書きました。
報道によると、Aさんは控訴したけれども、憲法違反という主張を取り下げて、裁判員をやったことによる被害の訴えを中心にするということです。
一審判決は、裁判員を経験したことで急性ストレス障害になったことは認めているので、高裁は和解を勧めてくるのではないでしょうか。国にとっては、裁判員を経験したことでストレス障害になったと判決で確定されるよりは、和解で解決する方がいいからです。
そして原告側は、精神的苦痛を受けたことに対する賠償という訴えをしているのだから和解に応じざるを得ないですよね。精神的苦痛に対するお金を出すと言われて、和解に応じないと言うと、「なぜ?」となるから。和解ではなく、判決で白黒をというのであれば、これまでと同様に制度の問題に踏み込まざるを得ないでしょう。
裁判員経験者の中にはAさんのように苦しみながら泣き寝入りをしている人が多くいると思います。
その人たちの中から、自分も賠償請求しようという人が出てくるかも知れません。なんといっても、これまでのように憲法違反だと訴えるよりは、苦痛を受けたから賠償してくれという裁判の方がハードルが低いので。
あちこちで同様の訴訟が続くことになれば面白いことになると思いますが、いかがでしょうか。
草々
という内容なのですが、にゃんこ先生にご意見を伺いたいと思います。
まず、憲法違反という主張を取り下げ、裁判員をやらされて受けた被害の訴えを中心にするという点についてですが。
確かにそのような報道はあるが、Aさんが憲法違反の主張を本当に取り下げてしまうかどうか。確かなことはよくわからない。「仮に裁判員制度が憲法違反でないとしても、裁判員になって激しい精神的打撃を強く受けたことは間違いない」というように、憲法違反の主張を全部消してしまわずに、「仮に…でないとしても」というように、一歩引いた「控えの主張」として純粋損害賠償請求を言うのかもしれない。こういう主張のことを「予備的主張」というが、その予備的主張をするかも知れないのだ。
わかりました。では、この方がおっしゃる「和解を打診してくる可能性」というのはいかがでしょう。
その可能性もまずないというべきだろうね。ゼロとは断定できないが、仮に高裁が打診しても国が応諾する可能性は極めて低い。また、それも譲って国が万一応じたとしても、Aさんが断るだろう。「和解金を払う」ということは国の責任が不明確なままに終わるということを意味するから、Aさんとしては受け入れがたい話になる。
でも、この読者さんは、精神的苦痛を受けたことに対する賠償という訴えをしているのだからお金を払うという話になれば和解に応じざるを得ないのではとおっしゃっていますが。
金の支払いを求めているのだから、金を払うと言えば受けざるを得なくなるだろうという見方なのだろうけれど、金銭請求はそろばん勘定と直結するものでもない。国に責任があるということを明確にして貰いたいというのがAさんの考えだ、この国の法律は、責任追及は原則として金銭賠償という形でするしかないと決めているから金銭請求をしているだけのことなのだ。だから、金を払えと賠償請求をする人は「金目」だということにはならないし、和解を断る訳にはいかなくなるなどということはまったくない。
つまり、にゃんこ先生は、この事件と和解が結びつかないとお考えなのでしょうか。
1審判決が裁判員を経験したことで急性ストレス障害になったことを認めていてもですか。
そう。裁判員を経験したことで急性ストレス障害になったことを一審判決が認めていることと少しも矛盾しないのだ。
そう言えば、国は、この事件の1審の当初から、Aさんが精神的打撃を受けたという主張をしたのについて、積極的に争ったりしませんでしたね。
そう。それでも1審裁判所は、原告と被告に、和解の勧告など何もしなかったでしょう。原告がどのような主張をしていても、裁判所としては和解がふさわしいと判断すれば、和解を勧告します。だが、1審裁判所はそれをまったくしなかった。
この事件はそもそも「和解になじまない」事件だと裁判関係者のみんなが考えている事件だということになるでしょう。国にとっては「裁判員を経験したことでストレス障害になったと判決で確定されるよりは、和解で解決する方がいい」ということは少しもない。Aさんがストレス障害になったことはもはや否定しようのない事実で、高裁が認めるとか認めないとかいう以前の「社会的に公然の事実」なのだ。
つまり、憲法違反を言うかどうかは別として、いずれにしても国策の是非を論じる裁判に変わりはないということですね。
そのとおり。この事件には、和解論が登場する隙間はまずまったくないと言って良い。金の貸し借りや交通事故の事件と一緒に論じることはできない。
そのことを別の角度から言えば、「裁判員経験者の中にはAさんのような人が多くいて、その人たちの中から自分も賠償請求しようという人が出てくるかも知れない」から、国としては和解に応じることなどできなくなると言ってもよい。
国民の側から見て「面白いことになるような」筋書きを国が演じる訳がない。それが国家というもの。もっとも、原告・控訴人は一介の市民だから、何かの都合というようなひょんな事情がどんなときに飛び出さないとも限らない。それがまた市民というもの。今私が話したことは、あくまで特別なことが起きなければ、という原則論のお話にとどまることは頭においておいてくれ給え。
にゃんこ先生、ありがとうございました。大鷲弁護士からケーキの差し入れを戴きましたので、珈琲をお入れしますね。
あっ、珈琲ならインコが入れますので、ケーキのご相伴にあずかりたく…
投稿:2014年10月19日
弁護士 猪野 亨
下記は「弁護士 猪野亨のブログ」10月06日の記事です。
猪野弁護士のご了解の下、転載しております。
福島地方裁判所は、裁判員になり、遺体の写真を見ることによってPTSDを発症したとする60代女性の国賠請求を棄却しました。
この訴訟は、裁判員制度そのものが憲法に違反していること、その憲法違反である裁判員制度によってPTSDが発症したのであるから、慰謝料を求めるというものです。
その意味では、元裁判員の側から裁判員制度の合憲性を争った初めての裁判ということがいえます。
被告人側が争ったものについては、最高裁は、ほとんど屁理屈をもって違憲の主張を退け、「合憲」としました。
「裁判員制度 最高裁合憲判決」
最初から結論ありきの不当判決です。最高裁は裁判員制度の制度設計にも深く関わり、最初から当事者化していましたし、広報にも関与していました。
本来的に司法が政治化するとどのような問題が生じるのかを如実に示したものと言えます。
(当時の最高裁長官は、司法の判断と司法行政は別だと強弁していましたが、別ではなかったのです。)
裁判員側からみた場合、そもそも一律に国民を動員しようというのが裁判員制度ですから、私に言わせれば、制度そのものが憲法違反です。
苦役の禁止(憲法18条)とは、国民に義務を負わせ、みたくもないむごたらしい遺体の写真を見せつけられる、このようなものは「立派」な苦役です。
人を裁くことを強制されることは自体も思想良心の自由(憲法19条)を侵害するものであり、本来的に個別事情によって変わるというものではありません。
このような国民の人権を侵害する制度を国家が創設することの是非が問われているということです。
これは徴兵制と同じです。個々の国民が徴兵制による徴兵に応じるかどうかの問題ではなく、国がそのような制度を設けることの是非が問われているということなのです。
もちろん国賠訴訟で損害賠償を請求する場合、この訴訟のように正面から制度の憲法適合性を争う場合によりも、その請求が認められる可能性が出てきます。
個別に当該裁判員にとって苦役だったのかどうか、思想良心の自由を侵害していないのかという観点からその責任を問うことが可能になるからです。
とはいえ、このような争い方をしたとしても、今の裁判所が元裁判員の請求を認容する可能性はゼロです。
国賠では、権力側に幅広い裁量を認めるものであり、その裁量権を明らかに逸脱するようなものでなければ、違法を認めないからです。
その意味では、この元裁判員が裁判員制度の合憲性そのものを争ったことには大きな意味があったと言えます。
この憲法違反の裁判員制度については、今後も廃止に向け、がんばりましょう。
投稿:2014年10月17日
9月30日、私は判決言渡しを傍聴し、記者会見にも参加しました。記者会見で、Aさんは、裁判員をさせられて死にたいとまで思ったと苛烈な体験を語り、その打撃は今もなお続いていると切々と訴えました。翌10月1日、県紙、ブロック紙、全国紙は一斉にこの判決を報道しましたが、マスコミが何を重点に報じたか、私の現場感覚とも照らし合わせながら分析してみます。まず、各紙の見出しの紹介から。太字はメインタイトルです。
□ 『福島民報』 裁判員制度は合憲 裁判員ストレス障害訴訟 原告の請求棄却 発症の因果関係は認める 福島地裁判決 制度運営の在り方に一石 判決要旨
□ 『福島民友』 ストレス訴訟 裁判員制度は「合憲」 福島地裁判決 賠償請求を棄却 原告「我慢しろということ」 苦しみ 法律論の陰に 判決要旨
□ 『河北新報』 ストレス障害訴訟 裁判員制度は「合憲」 福島地裁 女性の請求棄却 続く悪夢や不眠「我慢しろという判決だ」 無念さ消えぬまま 負担軽減へ 改善続けよ
□ 『朝日』 「遺体写真でストレス障害」 元裁判員の訴え棄却 福島地裁
同県版 「提訴し良かった 制度に少し風穴」 裁判員ストレス敗訴の原告
□ 『読売』 「裁判員で苦痛」訴え棄却 福島地裁「負担は合理的範囲」
同県版 「裁判員の苦役伝わらず」 青木さん請求棄却に落胆
□ 『毎日』 「裁判員制度は合憲」 ストレス障害訴訟 賠償請求棄却 福島地裁 制度改善し再発防げ
同県版 ストレス障害訴訟「国の都合で犠牲に」 原告側「裁判員合憲」に失望
□ 『日経』 裁判員 負担軽減探る ストレス訴訟 契機 24時間相談窓口 写真→イラストに 福島地裁、賠償請求は棄却 遺体写真取り扱い 経験者意見割れる
□ 『産経』 裁判員制度は「合憲」 福島地裁「ストレス障害」賠償請求棄却 「死にたかった」原告女性会見 経験語る
□ 『東京』 ストレス障害の訴え棄却 裁判員経験者「配慮を」
報道の特徴を考えます。
基本は「制度合憲の判決」と「請求棄却」。判決報道としてはそれは当然でしょうが、報道はそのことに絞らず、様々な問題に目を配っています。
Aさんが裁判員の職責を果たしたことと外傷性ストレスを発症したことの間に相当因果関係があると認定したことを見出しに掲げた『民報』のほか、「無念さ消えぬまま『河北』」、「苦役伝わらず『読売』県内」、「国の都合で犠牲に『毎日』県内」、「『死にたかった』原告女性会見 経験語る『産経』」等々。多くの新聞がAさんの苦しみと悔しさを詳しく報道しています。棄却判決に多くの国民が感じる違和感を強く意識した紙面構成が目立ちます。
「この判決は私に我慢しろと言っているのだと思う」と発言したAさんの言葉を『民友』と『河北』がそろって見出しに掲げました。「我慢しろ判決」は、最高裁必死の「裁判員出頭勧誘」にバケツで水をぶっかけた感じです。この記事を読んだ読者のほとんどが裁判所に出頭しなくなるでしょう。
竹崎前最高裁長官がAさんの提訴決意を知って、あわてて現場に対策を命じたことが知られています。制度推進の旗振り役を一手専売に引き受けてきたマスコミとしても、裁判員経験者が急性ストレス障害やPTSDになられては困ります。
各紙の紙面は「もっと裁判員への配慮を」の記事で一杯になりました。「制度運営の在り方に一石『民報』」「負担軽減へ 改善続けよ『河北』」「制度改善し再発防げ『毎日』」「裁判員 負担軽減探る『日経』」「裁判員経験者『配慮を』『東京』」。この制度の廃止を求めていたAさんが触れもしなかった制度改善論の花盛りです。
いえ、触れていないどころか、記者会見でAさんははっきりと「白黒にしろとか負担を軽減してほしいと頼んでいません」と言われ、さらに「裁判員の負担を軽減よりも制度自体を問題にするのか」という質問に対しても「制度を廃止すればそんなことを考えなくてもよい」と言われました。織田信夫弁護士も佐久間敬子弁護士も「証拠を変更すべきではない。そんなことをすれば刑事裁判を歪める」と異口同音に言われたことです。各紙、この部分はスルーどころか内容を歪めて報道しているとしか言いようがありません。
カラー写真をモノクロやイラストに変えたり、目をつぶって見ないでもよいことにすれば、裁判員として出頭してくれる国民が多くなると本気で思っている。そんな「配慮」論の薄っぺらさがひどく目立ちます。『朝日』県版に至っては、Aさんの「廃止要求」を「抜本的変更の主張」と言い換え、「Aさんは裁判員制度が抜本的に変更されるべきだと主張してきた」と書きました。「廃止要求」という言葉を使わせない社風がうかがわれます。
さてその『朝日』がこの判決について社説を出しました。
10月4日掲載で、タイトルは「裁判員の負担 実態をつかみ対策を」。要旨は次のとおりです。「制度開始5年、5万人超が裁判員を務めた。裁判員の心に深刻な負担を与えているケースについて実態をつかみ、対策をとるべき。写真をイラストやCGにしたり、カラーを白黒にしたり、証拠提示前に予告をしたりといった証拠接触上の衝撃緩和策の精査が必要。また、無罪主張事件で有罪を言い渡したり、死刑等の重罰言渡しをすることなどの葛藤についても守秘義務緩和を含め実態把握と対策検討を急ぐべき。重い任務を先々にわたって支える態勢を築いていきたい」と。
裁判員制度はこのままでよいのかという危機感を微塵も見せていません。それどころか、この制度が「先々にわたって」続くことをわざわざ指摘しての文章です。しかし、「小衝撃」は極論すれば「お気楽に」ということ。裁判員への衝撃の極少化追求は刑事裁判の目的にかなうものなのでしょうか。
そういう問題をこの新聞はどう考えているのか、具体的に何も切り込んでいません。それでよいのかを論議すればいけないということになり、衝撃回避は誤りという結論になればやっぱり国民参加はやめようということになる。そういう回路に踏み込まないように、意識的に結論の出ない(結論を出さない)論議をしているように思われます。
社説は、裁判員経験者向けに裁判所が設けた窓口への相談件数が今年8月までに213件、そこから臨床心理士との面接に進んだのが26件、さらに医療機関に紹介したのが5件だったと説明しています。しかし、この数字の評価については一言も触れていません。
Aさんの事件に最高裁長官が大あわてにあわてて、Aさんの裁判がこれほど大きく報道されたことからすると、213件という相談件数は、裁判員経験者が最高裁の薦める相談機関を頼りにせず信用していないことを示しているものではないでしょうか。責任あるメディアとしては、そういう疑問を感じて当然だろうと思います。
裁判員経験者を5万人とすれば、相談比率は0.43%。四捨五入すれば消えてしまうような数字です。Aさんは医療機関や臨床心理士へのコンタクトもとっていませんでした。相談窓口に電話をかけたら「面接は東京でやるので自費で上京するように」と言われたので行かなかったというのです。
「実態をつかむ」というのは、このような仕組みがどれほどの意味を持っているかについて、裁判員経験者が置かれている状況を全体的に把握した上で、本当は多くの経験者が苦しんでいる事情を正確に解明することです。
最高裁は、Aさんが提訴する半年前には、「何よりも重要なことは、裁判員として参加した体験について、95%を超える裁判員が、これを貴重な体験であったと肯定的な評価をしているという事実である」などと、裁判員としての参加について脳天気極まる評価を下していました(「裁判員裁判実施状況の検証報告書」12年12月)。
実態をつかめという以上は、最高裁のこのような評価に対する批判的姿勢が欠かせないはずですが、今回の報道ぶりを見ても、『朝日』が制度に対する国民の厳しい視線に真摯に向き合おうとしているようにはとても思えません。
今回の判決報道についての結論です。裁判員としての体験が一般に想像されているものよりもはるかに過酷で深刻なものであることがこの裁判で明らかになりました。多くの国民がこの裁判報道に接してますます出頭の気持ちを失い、そうでなくても出頭が極めて少なくなっている状況がさらに「深刻化」するのは必至でしょう。
マスコミもこの制度をめぐってもう本当の議論をするぎりぎりの時が来たのです。それが今回の判決報道を見ての私の率直な感想です。
投稿:2014年10月15日
にゃんこ先生のこれまでのお話をまとめますと、Aさんが裁判員の職務を真面目にやりきったために外傷性ストレス障害を発症したと明確に認定しながら、すべての論点について国の主張を受け入れ、裁判員制度は合憲だと言い切った福島地裁判決ということになります。
「国は裁判員をやらないですむ辞退の態勢を整え、選任されてもやめられる機会を工夫してもいたのに、それらの機会を活用せず精神的な負担が多い裁判員の職務に従った。無理があるのならやらなければよく、始めてからもやめずに最後までやった」と。外傷性ストレス障害になってもその責任を国に問うことはできないということは、裁判員を経験して病気になっても国は一切責任を負わないと明言したということだ。
その部分を深く突っつくとですね。辛くて病気になりそうだったらやらなくてよいと言われたら、ほとんどの国民は「私は辛くて病気になりそうだ。裁判所から勧められるのなら早々と遠慮させていただく」と言うに違いないってことです。
Aさんは真面目に裁判員の勤めを果たした。辛くてもそのことを表に出さず、歯を食いしばって我慢した。証人や被告人に積極的に尋ねもし、裁判後の共同記者会見でも感想を吐露した。裁判所はその我慢を生涯にわたって続けろとAさんに言っている。誰がAさんの苦しみを引き継ぐ気になるか。
裁判員を務めるのは無理だと言ったら、その言い分に正当な理由があるかないかはどう判断するのだろう(正当な理由がなければ10万円以下の過料を科されることがある)。30万人の候補者についてその識別をすることは不可能ですよね。
考えても見給え。自分がこれから裁判員になって血の海の写真を見せられたり断末魔の録音テープを聞かされたりするということは事前にはわからないのだ。Aさんもそうだったように、裁判員候補者は裁判員になって経験することの何1つも事前に知らされない。
そっか。呼び出されて裁判所に行って初めて事件のことを知らされるんでしたね。アメリカの陪審では事前に何の事件で呼び出すか知らされていますよね。
事件のことを知ったからと言って、裁判の証拠に何が出されるかまでは分からないし、事件の内容によってはある程度、残酷な証拠が出てくることは予測できても、その証拠に自分が耐えられるかどうかなんてわかないよ。
裁判所に行く前に専門医に相談しても、自分がこれから経験することを何も説明できない裁判員候補者を前にしては、ブラックジャックのような名医でも的確な医学判断はなし得まい。また、人を死刑台に送ったり長期間刑務所に入らせたりする経験が後々その裁判員の心にどのような傷を残すのか、そんな判断ができる専門医などいる訳もない。
つまり、発症の懸念があるから辞退するとか辞任したいとか言えば、そのような発症はあり得ないと断言できる者はいないってことですよね。裁判員をやってストレス障害にでもなられたら裁判所としては絶対に困る。ということは、「私は無理だ」と言えばお・し・ま・いということ。
裁判員法が国会で審議された際に、裁判員としての出頭を国民に義務づける根拠として国が答弁していたのは、「義務づけなければやりたい人たちだけが参加し、国民の意見が平均的に反映されなくなってしまう」ということでしたけど。
今回の判決もそのことについて次のように説明している。実に興味深い論旨だ。
「国民の司法に対する理解や信頼は、ただ誰かが刑事裁判に参加していれば得られるものとはいえない。多用な価値観を有し、さまざまな社会的地位にある国民誰もが裁判員となる資格と可能性を有し、実際に様々な国民が裁判員となって刑事裁判に関与しその判断を示すからこそ、裁判員とはならなかった国民からも、刑事裁判、ひいては司法に対する理解と信頼が得られるものといえる。
これが仮に、一部の価値観を代表する者のみや、偏った社会的地位を持つ国民からのみ裁判員が選ばれるとすれば、そのような刑事裁判が国民全体からの理解と信頼を得られるものとはならないことは明らかである。そのような事態となれば、国民は、司法的手段により自己の権利・利益の実現を図ることを躊躇し、よって裁判員法の目的が失われてしまうことになりかねない。」
さぁ、どうだ。同じ裁判所が言う「万人平等義務づけの必要性」を強調する滔々たる論旨と「無理なら止めろ」という奥歯に物の挟まったような論旨の間には矛盾や不整合を感じないか。前者を強調すればするほど赤紙督促で身柄確保に精を出し、辞退や解任を減らすべきことになる。後者を強調すればするほど出頭拒絶に寛容になり、辞退や解任を幅広く認めることになる。
あちら立てればこちらが立たず、頭押さえりゃ尻上がる、出船に良い風は入船に悪い…
(やれやれヒヨコさんまで…)今年7月、出頭者が候補者の27%しかいなくなったと最高裁自身が報じましたよね。
そうだ。すでに出頭者はしっかり「一部の価値観を代表する者」になり、「国民全体からの理解と信頼を得られ」ない時代に突入している。そう、彼らの言う「裁判員法の目的」がもはや「失われてしまうことにな」っているのだ。
「様々な国民が裁判員となるからこそ、裁判員にならなかった国民から司法に対する理解と信頼が得られる」と言うのなら、「裁判員を無理なくやれる極少の国民=血の海も死刑宣告もさして苦労を感じない人たち」と「裁判員を敬遠する圧倒的多数の国民=そういうことを経験したくないと思う人たち」の間には、もう明らかに深い深い溝ができていますね。
潮見裁判長は、ここのところを何もわかっていないのかな。いや、全部わかってやっているのかな。
もう一つの論点は、弁護人が上告理由に掲げていなかったのに上告理由と見なした11年11月の最高裁大法廷判決に関する判断だ。判決は支離滅裂である。「上告趣意の中には、弁護人が明示した以外の条項(つまり、苦役禁止を言う憲法18条)でも上告理由として主張する趣旨が含まれていると解すべき」とどうして言えるが問題なのだ。
そんな判断が通用するのなら、最高裁が「これも上告趣意だ」と決めつければ何でも上告趣意になってしまう。最高裁の誤りを正す司法機関はないのだ。刑事裁判の現場では、憲法の何条と何条に違反すると主張するのかがチェックされ、あいまいな言い分が通用する場面はない。
最高裁がデタラメの先頭を走り下級審がヒラメよろしく従うかあ。デタラメとヒラメの組み合わせは、この国の司法が自滅の道をひた走っていることを何よりもよく示しているんだ。
Aさんの主張がもともと簡単に通る性質のものでなかったことは言うまでもない。地裁判決はAさんの敗訴だったが、では国は勝ったか。そこがこの判決を考える最後のポイントだ。
「病気になっても国には責任がない、君たちには我慢してもらう」と国民を奈落に突き落としたことで最高裁はいかなる勝利も前進も勝ち得なかった。それどころか地裁の裁判官たちから、最高裁や国は、特急「地獄行き」の切符を渡されてしまった。切符の裏は真っ黒だが、よく見ると「ひいきの引き倒し」と「褒め殺し」という字がびっしり印字されているようだ。
それでは、最高裁の判事諸公やこの国の政府の大臣諸公たち。グリーン車でも何でも使ってさっさと行ってくださいな。道中、せいぜいお楽しみを。
投稿:2014年10月13日
急性ストレス障害国賠訴訟の判決が9月30に出ましたから、先生のお考えをお伺いしようと思いまして。先生の予測が的中してAさんは敗訴。この判決についてどう思われますか。
先生のお話を聞くために判決の内容を簡単にまとめてみました。裁判所は、事実経過については、次のようにAさんの主張をほとんど全部認めました。
ア 福島地裁郡山支部から呼び出しを受け、出頭したくなかったので、勤務先に過料10万円の負担を求めたら断られた。
イ 選任期日に裁判員の辞退事由の説明を受けたが該当項目がないと思われ、裁判員に選任された。その日から辛く、頭痛、不眠、食欲不振が続いたため、医師の診察を受けたところ反応性うつ秒と診断され、処方を受けた。
ウ 公判審理の初日には、血の海の現場や遺体のカラー写真を見せられたり、犯人に刺されながら救いを求める被害者の録音音声などを聞かされたりして具合が悪くなり、昼食の大半をとれず、トイレで嘔吐した。
エ 辞任を申し立てず、嘔吐することもあったが、裁判員の職責を果たさねばという使命感から積極的に審理に参加し、死刑判決の後の記者会見にも出席して辛かったことを告白したが、体調の悪変には触れなかった。
オ 裁判後も体調不良が続いたので裁判所に相談し、その勧めで裁判員のためのメンタルサポートセンターにも電話で相談したが、東京まで交通費を自己負担して行かねばならないと言われて断念した。再度かかりつけの医師を受診したところ、やはり反応性うつ秒と診断された。同医師の紹介で受診した専門の心療内科の専門医は急性ストレス障害と診断した。
カ 体調不良にもかかわらず辞退の申し出でもせず、証拠にも目を向け、証人などに尋ねもし、真摯に審理、評議、評決に臨み、誠実に裁判員の職務を果たした。
キ 真面目に裁判員の職務を遂行しようとしたが故に重い精神的負担を強いられ、その結果、不眠などの体調不良が継続し、急性ストレス障害を発症したものと認められる。裁判員としての職務による負担は精神的な側面にも及び、その程度も相当に重い負担になり得る。
つまり裁判所は、誠実に裁判員の職務を果たしたことが原因となって外傷性ストレス障害を発症したと認めた上で、しかしAさんの請求を全部棄却したってことですよね。その理屈はどうなっているのですか。
いくつかの論点があるが、大きく分けると2つだ。その1つ、とりあえず「苦役に当たらない」というところに絞って紹介しよう。
① 裁判員裁判が裁判員に強いる精神的負担は相当重いと予想できるが、裁判員制度は憲法18条が禁じる苦役に該当しない。
② そもそも憲法は国民が司法に参加することを禁止していない。また、国民の権利・利益を保護する司法の役割が非常に重要になっている現在、司法制度に対する国民の理解や信頼を増し、国民的基盤を強める必要があると当局の責任者は言っている。
③ 裁判員法の目的を達成するためには国民誰しもが裁判員となり、原則的に選任を拒絶できない制度にするのは合理的だ。
④ 裁判員法は、裁判員を辞退できる場合を種々規定し、柔軟で弾力的な解釈が可能になっているし、裁判員の選任後にも辞任を申し出て解任してもらう運用もある。また、実際の裁判の中でも裁判員の負担を和らげる方法がいろいろ工夫されてもいる。日当などの支払いや出頭による不利益取り扱いの禁止も規定されている。
⑤ このような態勢がとられていることに照らせば、Aさんに障害が生じているからと言って直ちに国民の負担が合理的範囲を超えるものとは断定できず、国民の負担は合理的な範囲のものと言える。なお、裁判員が障害を発症した場合には、国家公務員災害補償法による補償の途も開かれている。
国民誰もが裁判員となり原則的に拒絶できないというのと辞退できる場合を種々規定しているって矛盾しません?
いやそれよりなにより、いつの間にそんな幅広く辞退できるようになったのか。
みなさん、お静かに。それは後で先生から論評していただきましょう。
もう一つの論点を紹介しよう。それは、被告国が裁判員制度を合憲だとする根拠の1つに挙げていた最高裁の2011年11月の大法廷が言い渡した裁判員制度は合憲だという判決に関することだ。原告代理人はその判決のプロセスには大変なインチキがあり、その判決は無効で、今回の事件を考える拠り所にしてはならないと主張していた。
そうだ。3年前の最判大法廷判決では、被告人の弁護人は、上告理由として、「裁判員制度は苦役強要を禁じた憲法18条に反する」と主張していなかった。弁護人が上告理由に挙げていなかったのに、最高裁はあたかも弁護人がそのことを上告理由に挙げていたかのように扱って、裁判員制度は苦役に当たらないと言っていたのだ。
その裁判は1審が裁判員裁判の刑事事件でしたね。だから、被告人には、「こんな裁判で裁判されるのはかなわない」という思いがあったのでしょうし、裁判員が苦役を強要されて辛いとか辛くないとか、そんな話は自分の問題ではないということですよね。
「裁判員にとって苦役」なんていうことを上告理由に挙げなかったのは当たり前のことって訳ですね。
しかし、最高裁は、敢えてその事件で、「裁判員制度は苦役を強要するものではない」と言った。裁判員になりたくないと思っている国民が圧倒的多数だということを知っている最高裁は、この機会に、その国民に対して、この制度は苦役を強要するものではないので進んで裁判員になってほしいというメッセージを送ろうと考え、問われてもいない「苦役憲法違反論」を取り上げて論じた、というのがAさんの代理人の主張だった。
しかし、その主張も裁判所は否定した。「上告趣意の中には、弁護人が明示した以外の条項でも上告理由として主張する趣旨が含まれていると解すべき」というのが裁判所の判断だった。
えぇー。それなら裁判所はなんでも判断できるってことですよね。
今回の判決の骨格は以上のとおりだ。この判決をどう見るか。この判決がこれからの裁判員裁判にどのような影響を与えるか。それらをまとめて解説しよう。
(次回乞ご期待)
投稿:2014年10月13日
会見席に佐久間敬子弁護士、原告のAさんと夫、織田信夫弁護士が座り、最前列席に高山俊吉弁護士が着席した。用意された席は満席、座りきれない記者も出る。
会見は、織田弁護士の「判決が言い渡された直後であり、判決文を読み込んでおらず内容を精査していない。今後、原告と相談して控訴するかどうかの検討を行うので、説明がまだできない部分もあるかもしれないが了承してもらいたい」とのあいさつで始まり、記者からは主に原告のAさんに対する質問が多く出されたが、判決の問題については織田弁護士から話を振られた高山弁護士も発言するなどした。
記者会見での発言要旨(重複した質問と回答は整理しています)
Q:判決を受けた今の気持ちは。
Aさん「腹も立たない。なるほど、これが国のやり方かと。自分の気持ちは伝わっていない。ストレスになろうが、病気になろうが、裁判員に参加した以上は我慢しろということ。国は信じられない。病気を認めても、具合が悪くなっても仕方がないということ」
Q:青木さんが裁判を起こしたことで各地の裁判所の対応が変わってきたことについてどう思うか。
Aさん「証拠写真をカラーから白黒にしろなどと頼んでいない。事件はきちんとした証拠で裁くべき。裁判は本当のことを見せなければならない。裁判員制度がなくなればこんな問題は起きない」
Q:裁判員の負担軽減よりも制度自体を問題にするということか。
Aさん「制度がなければそのようなことを考える必要もない」
Aさん夫「先ほどから証拠やメンタルヘルスの話が出ているが、中途半端。裁判を起こされて慌てて作ったものだ。それは調べてもらったら分かる。一言で言えば言葉にならないということ」
織田弁護士「裁判員裁判だからと証拠を変更すべきではない。訴訟指揮や立証方法に落ち度、不法行為があったと訴えていない。制度そのものが悪いと主張している」
佐久間弁護士「残酷な証拠だからとカラーを白黒にするだけでなく、イラストにしたりアニメにするという話まで出ているが、これでは証拠を変な形に歪めることを許容する制度である。裁判員制度は、日本の刑事裁判を歪めている。裁判員に苦役を課すだけでなく、刑事被告人の権利も侵害する」
Q:裁判ではAさんの負担に対する議論が深まらなかったと思うが
Aさん「国は聞かなかった。聞いてくれないので、半分も伝えられなかった。国には裁判員の負担について聞いてほしかったが、知らないと言った。これが国のやり方。病気になっても我慢しろということ」
Q:判決の問題について
織田弁護士「最高裁大法廷をなぞったような判決である。国民の権利を破壊している。声をあげていかなければならない。判決文には病気との因果関係を認めている。つまり個人よりも制度維持に邁進する裁判所である。今回の裁判は、国民一人ひとりの生命、安全を守るのか、国の都合を優先させるか、そのどちらを優先させるかを問うた。結果は、国のためなら命も差し出せという判決だった。“裁判員制度はいらないインコ”は判決の影響についてホームページに書いている。勝ったらもちろん、負けたら病気になっても賠償してくれないということで裁判員になる人がいなくなるのではと言っている。影響というのはそういうところに出てくると思っている」
高山弁護士「今回の判決には2つの問題がある。1つは、ストレス障害になっても我慢しろという。これは非常に残酷な話。裁判員はどんなに大変なことがあっても我慢しなければならない存在だと国はいった。もう1つは、最高裁の裁判員制度合憲判決の話だ。この判決は、上告理由として『裁判員を強いられることは憲法が禁止する苦役の強制にあたる』と明確に言っていなくても、全体としてその趣旨が上告理由に含まれていると考えてよいと言っている。それは刑事司法の死滅や自殺を意味するめちゃくちゃな論議である」
Aさん夫「負けたとは思っていない。国の命令なら病気になっても当然、その覚悟で参加しろという判決である。召集制度で死んだということと変わらない」
Q:Aさんは何が一番辛かったか
Aさん「選任手続きから強引で縛り付けるようなもので、この制度はおかしい。縛り付けたのは『赤紙』だけじゃない。選任手続きのときから罰金を払ったことがあるかとか親族のことまで聞かれる。辛かったのは(急性ストレス障害で)何もできなくなったこと。日常生活ができなくなったことが悔しい。包丁も使えない、洗濯もできない、掃除もできない。日常生活が出来ない。出来ていたことが出来なくなったことが悔しい。夫に迷惑をかけ死にたいと思ったこともある。死にたいとは何度も思った。私が居なくなればいいんだと。泣き寝入りしている人もたくさんいるんじゃないか」
Aさん夫「悲しいとか辛いとかでなく、なんと言ったらいいのか、憤懣やるかたない。その気持ちを自分の中で閉じ込めておかなければならない。どこかで限界がくるかと思った。でも妻の方がもっと辛い」
織田弁護士「それでも裁判所は苦役でないという。裁判所がダメなら、国会議員がもう一度考え直してほしい。裁判員制度を考える議員連盟のようなものをもう一度立ち上げ、制度廃止への立法措置をとってほしい」
投稿:2014年10月2日
裁判前のマスコミによる写真撮影時間は2分、判決言い渡しはそれよりはるかに短いたったの15秒。
「原告の訴えを棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。裁判員制度は合憲と当裁判所は判断します」それだけ言うと、そそくさと退廷。「物言えば唇寒し秋の風」とでも思ったのか、ともかくこの場に1秒でも長くはいたくないという感じ。Aさんの深刻な肉体的・精神的ダメージを認めながら、裁判員は苦役でないと判断したというのだから、当然と言えば当然かも。
そして、気のせいかもしれないけれど入廷してきたときから何となく右陪席が辛そうな顔をしていたような。それは「原告を勝訴させて自分の出世の道は閉ざされた」か、「裁判員制度なんてもので、原告が苦しみ、それを救済できない自分」かどっちかなと。写真撮影が終わった直後の裁判長の顔を見たとき、あぁーこれは後者だなと思ったら案の定でした。
ところでわたくし、裁判の傍聴経験は数えるほどしかなく、判決言い渡しを傍聴したのは初めて。良い経験になりました(棒読み)。
潮見直之裁判長は36期、裁判官21年目、北海道出身で東北大学卒業、右陪席は59期、裁判官8年目、その差なんと23年。左陪席はしらーっと平気な顔をしていても当然で、裁判員制度は存在するものとして司法研修を受けてきた坊や。
ところが、裁判長と右陪席は民事担当だから裁判員制度なんてものは詳しく知らなかったはず。このことは第2回口頭弁論で、裁判長がうっかりかどうかは知らないけれど「裁判員法の立法時には刑事裁判の在り方への批判があってこの法律ができたはず」なんてトンデモ発言をしていたことからも分かります。右陪席はもしかしたら裁判員制度ができて刑事裁判はトンでもないことになっていて、その煽りで予算も人も削られた民事も大変で、しかも裁判員経験者は気の毒で・・・と思ったかもしれない。
まあどちらにしても裁判官8年目と任官してまだ1年と8カ月目の新人君と、そして21年目のベテランととなると、 ベテランがリードし、もしかするとベテランが判決文を書いたのかも知れませんね。
潮見裁判長は「裁判員制度に対し初の違憲判断を下した」という「栄誉」よりも、右左2人の「出世」を選んだということでしょう。部下思いの良い上司ですね(棒読み)。
投稿:2014年10月1日