~裁判員制度はいらないインコは裁判員制度の廃止を求めます~
正確に言おう。「発足した時から低かった出頭率がその後さらにひどく下がった」だ。
当初の出頭率約40%が、最近は20%近くまで落ち込んだと言えばいいと。
最高裁自身使い分けをしている。実体に近い厳格な説明とマスコミ受けする甘い説明だ。
(控えめにパチパチと) ではお願いします。心静かにお聞きします。
まず、「実体に近い説明」の方から入ろう。これは「裁判員候補者として選定された者のうち実際に出頭した者の割合」を言う。
「裁判員候補者として選定された者」っていうのはどういうことですか。また、誰がどうやって候補者を決めるんですか。
ある地裁がある事件の審理を裁判員裁判として始めるとしよう。その地裁の裁判官たちは、その事件について呼び出す裁判員候補者をリストから選ぶ。リストというのは、あんたの地裁の今年の裁判員候補者は次の人たちだと最高裁が毎年年のはじめに全国の地裁に送ってくるものだ。
話がさかのぼっちゃうかもしれませんが、リストというのは最高裁が各地裁に送ってくるものなんですか。
本来は違う。裁判員法は、裁判員候補者名簿は地裁が調製しなければならないと定めているし(23条)、調製したらその結果を候補者に通知するのも地裁の仕事だと明記している(25条)。
最高裁は「地裁の仕事を手伝っている」などと弁解していますが、まともな説明ではないですね。
最高裁が裁判員法の規定を無視していることは誰の目にも明らかだ。
裁判員法がリスト作成を最高裁の仕事にしなかったのはなぜですか。
裁判員裁判をやるのは地裁、最高裁は地裁の裁判の良し悪しを最終的にチェックする上級審だ。地裁の裁判の裁判員候補者を最高裁が決めてしまうのは建前としてはどうにも不適切という考えがあったのだろう。
だったらリスト作りもリスト記載の通知も地裁がやればいいじゃないっすか。法律を守って。
その作業を実際に地裁にさせたら地裁の事務はパンクする。各地裁がてんでんに外注して混乱したり秘密が漏れたりしたら大問題になる。というような理屈で最高裁が一元管理することにしたんだろう。最高裁だってアウトソーシングと称して民間業者に丸投げ外注しているけどね。
2016年度だけで17億6,800万円の裁判員制度関連予算のうち、いくら使われていることやら。どちらにしても官僚的な統制で裁判所が仕切られているという話ですね。
ところで最高裁の裁判員候補者名簿は市町村選挙管理委員会の選挙人名簿からくじで選ぶんでしたよね。
そうすると、選挙人名簿には有権者の住所・氏名・年齢しか載っていないから、候補者名簿には、国会議員とか、実務法曹とか、裁判所・法務省・警察の職員とか、自衛官とかも除外されずにそのまま載ってしまうと。
そう、70歳以上の人だということはわかっても辞退希望の有無まではわかりません。最高裁からリスト記載を通知された段階で自分の事情や意向を最高裁に回答する人もいますが、みんなきちんと通知書を読んでいる訳ではないし、読んだからといって必ず回答するものでもありません。
裁判員になれない人や1年を通じて辞退が認められる人だとわかれば、最高裁は各地裁にその情報も伝える。
このところ毎年20数万人だ。最高裁は、これを各地裁の推定事件数などを考慮して振り分ける。東京地裁本庁なら毎年2万人ほどになるな。
リスト記載通知の段階で候補者から除外される人って、おおざっぱに言えば、4分の1くらいになりますね。
裁判員になる資格がないと言ってくる人は1%もいませんが、定型的辞退事由があるとされる人は24%くらいになります。定型的辞退事由というのは、重い疾病・傷害があるとか他に任せられない介護・養育に関わっているとかで、裁判員法16条が定めています。
にわか病人、にわかけが人、にわか介護、にわか養育、にわか多忙…。多くは適当な理屈を付けた「かくれ拒絶者」だ。
70歳以上の辞退希望者はある程度いるでしょうが、それ以外の辞退希望者の多くは「かくれ」なんでしょうね。
実際に選任期日に出頭してきた人たちは、制度発足当初「裁判員候補者として選定された者」の40%程度だったのが、最近は20%程度に落ちた。ということは、例えば200人を選定したら50人が除外者になり、残る150人のうち80人くらい出頭していたのが最近は40人くらいしか出頭しなくなった。そういう訳ですね。
出頭状況の概要を把握するには「裁判員候補者として選定された者」を総数(母数)とするのがふさわしそうですね。
2009年が40.3%、10年38.3%、11年33.5%、12年30.6%、13年28.5%、14年26.7%、15年24.5%、そして今年は3月までで22.3%というように推移しています。
見事なくらいの下降曲線。どうしてこれで定着しているとか概ね順調なんて言えるのか。
そう豪語していたのははっきり言って最高裁だけだった。それもさすがに昨年あたりから言わなくなったな。
さて、もう一つの「マスコミ受けする甘い出頭率」の話に移りましょう。
70%を割ったなどと言われている方の「出頭率」はどういう意味なんですか。
これは「選任手続き期日に出頭を求められた者のうちどれだけが実際に出頭したかを%で示したもの」だ。
「選任手続き期日に出頭を求められた者」というのは、まず最高裁のリスト記載通知の段階で申し出られた無資格者・辞退希望者などを除外し、次いで地裁がリスト記載者に出頭要求をかけた段階で本人から申し出られた無資格者・辞退希望者も除外した結果、最終的に「残った人」のことだ。
確認させて下さい。最高裁の段階で除外される人は、どのくらいいるんすか。
昨年は、選定候補者13万3000人ほどのうち4万1000人ほどが除外されています。
昨年で言えば、9万2000人ほどが地裁から出頭を命じられ、4万4000人ほどが除外されました。
除外しまくり、されまくりじゃないですか。結局選任手続き期日に残った候補者は4万8000人ほどしかいなかったと。
そのとおりだ。「やりたくなけりゃやらなくてよいと言っているのにどうしてやろうとするのだ」っていうのが現在の最高裁の姿勢だ。辞退承認は文字通り大廉売になっている。
なるほど。で、「選任手続き期日に出頭を求める者」というのは、地裁の選任段階でも無資格だの辞退希望だのと言ってこなかった者ということですか。
そう、「選任手続き期日に出頭を求める者」と言うが、正確に言えば「呼び出し状によって選任期日に出頭するよう一旦命じた相手から本人の申し出などにより除外することにした者を除いた結果残った者」ということだ。
何というわかりにくさ。役人の世界でしか通用しない言い方ですね。
で、70%を割ったとか言われている出頭率というのは、そのなんたらかんたらで最後に残った者のうち実際に選任期日に出頭してきた者の比率ということなんすね。
ということは、これはつまり最高裁からのリスト記載通知に回答せず、地裁からの出頭命令にも何も言ってこなかったから、選任期日当日には恭(うやうや)しく出頭してくるだろうと裁判所から予測された「従順そうな羊」の候補者のうち、本当に「従順な羊」だった者はどれだけいたかというその割合っていうことですね。
おもしろい表現だ。前年11月のリスト記載通知以来、文句も言わずに静かに対応してくれていた候補者のうち裁判所の命令どおり選任期日に出頭してくれた候補者の数を調べて、その比率を「出頭率」と言ってるんだ。
出頭してくれると最高裁に思わせた者の中に期待通り出頭した者がどのくらいいたかということを調べると何に役立つのかしら。
知らん。最高裁がとっている統計には意味目的がよくわからんものがたくさんある。
「最高裁期待達成率」とか「真性羊率」とでも言った方がよさそうですね。
羊羹ではありません。羊率(ひつじりつ)です。でもマスコミのほとんどがこのへんてこ出頭率を使って物を言うのはなぜでしょうか。
そりゃ、マスコミが算出根拠などに関心を寄せないのをいいことに、最高裁は相手を煙に巻くようにその数字を使ってるだけのことさ。
裁判員裁判が始まった2009年が83.9%、それから10年80.6%、11年78.3%、12年76.0%、13年74.0%、14年71.5%、15年67.5%、そして今年3月までで61.0%です。
第1の出頭率は無残な減少状態でしたが、羊率の方もどんどん下がってますね。みんなどんどん「真性羊」から「疑似羊」に、いや違った「ばっくれ羊」になってきた。ボクが考えるに、この%は100から引いた比率を示した方がいいんじゃないでしょうか。
「音無の構えを貫徹し最後までお隠れのままで消えていった者」の数が、09年は16.1%、10年は19.4%、11年は21.7%、12年は24.0%、13年は26.0%、14年は28.5%、15年は32.5%、16年は39.0%に上った。そういうことになりますよね。
「ばっくれてお・し・ま・い」っていう国民がどんどん増えているっていうことはたいへんな話ではないでしょうか。
最高裁を相手に「にわか何とか」を演じるのにも、「ばっくれ」を決め込むのにも大きな決断がいる。その決断をする国民がどんどん増えているということだ。最高裁にとってこれほど「あってはならない状態」はないだろう。
そうですよね。天秤の一方に最高裁の権威に対する思い(畏れ多くもという気持ち)がかかり、もう一方に裁判員裁判に対する嫌悪の思い(避けるためにはウソでも言う気持ち)がかかっている。そして、裁判員への嫌悪感が最高裁の権威に対する評価に圧倒的に打ち勝っているということですから。
でもボクは思います。そのような事態をひきおこした責任は、裁判員制度を強引に押し進めた最高裁・法務省にあり、これに追随したりお先棒を担いだりした日弁連や大マスコミにもある。言ってみれば自業自得です。
みんながよってたかってこの国の司法の信頼を低める努力をしている。ほとんどマンガのような世界が現出しているのだ。
最高裁などは、この制度は司法への信頼をつなぐことを目標にしたものだと言っていたんじゃなかったでしたっけ。
そう言われた制度なんだが、正反対の方向に彼ら自身が進めているというのは何という皮肉だろう。いや皮肉というよりも必然的な帰結というべきだな。無理が通れば道理が引っ込むとか天罰覿面(てきめん)とか言うだろ、昔から。
最後に質問させて下さい。出頭率が議論されていますが、出頭した人はみんな裁判員をやってもいいと決意している人たちなのでしょうか。
いんや、しからず。「従順な羊」の中にも辞退を求める人たちがけっこういる。
昨年のデータでは、選任期日当日に出頭してきた約3万3000人のうち、約9200人、割合にして約28%が当日に辞退を認められています。ということは、選任期日にはこれより多くの人たちが辞めさせてくれと裁判所に迫っているということになりますね。
断るためだけに出頭してくる人もたくさんいる。最高裁などの制度推進勢力は、よくよく国民から見放されているのだ。これを「前門のばっくれ、後門の当日辞退」という。ふっふっふ、おわかりかな。
投稿:2016年5月25日
辛抱すれば成功するという喩えに「石の上にも3年」という言葉があるが、この石ばかりはどうにも暖まらないな。7年経っても成功の兆(きざし)どころか失敗の証(あかし)が積み上がるばかりだ。
もっと早くギブアップしていればよかったのに、うろうろしたので無様な姿を世間にさらしてしまいましたね。おかげで国民は裁判員制度が嫌いになるだけじゃなく、最高裁とか司法そのものにも疑問を持ってしまいました。
当たり前だ。権力は金と力を持っている。国民から吸い上げた税金を使って国民を苦しめることができるのが権力。しぶとい訳だ。原発政策だって戦争政策だって同じじゃないか
みんなが反対したってしぶとく頑張る。破綻を偽装する手口だって一人前ってことっすね。
金と力に物を言わせてやりまくった裁判員制度の惨史を跡づけておきたいと思います。最高裁としては、隠したいことや忘れてほしいことばかりでしょうけれど。
いえいえ、それは毎月の最高裁が公表しているので、私たちが情報を提供するまでもありません。
でもせっかくですから、今年5月発表の最新データだけは紹介しておきましょう。今年3月の裁判員候補者の出頭率は22.3%です。僅か3カ月で去年の24.5%から2ポイント以上も落ち込みました。激落です。この調子では今年年末には20%ラインを割り込むでしょう。その可能性が現実の問題になりましたね。
なんと言っても、最高裁が裁判員制度の広報にメチャクチャ力を注ぎ、メチャクチャ金をかけたってことです。すべて国民の税金を使い職員をこき使って実行しましたからね。
なるほど、それを確認しておくというのはとてもよい企画だ。彼らが「一番忘れてしまいたいこと」「なかったことにしてしたい歴史」、そう、まさに惨憺たる制度広報の汚辱史をこの際ぐりぐりっと掘り起こし、何から何まで国民の前にぎりぎりっとさらけ出し、さぁ今どうなってると思っとるんやとびしびし詰め寄りたいということだな。
インコさん独特のオノマトペ表現が満載ですが、まぁいいでしょう。そんな風に思ってくださっても結構です。最高裁が「(裁判員制度に)払ってきたエネルギーは、我が国の司法制度の歴史の中でもまれなほどに膨大なもの」(内田博文『刑法と戦争』)とされていますから、最高裁が格別に力を入れた宣伝広報に絞って考えるのも悪くないと思います。
巨額のお金をどぶに捨てた債務超過国家の負の歴史として語り継がれるでしょうね。
付け加えれば、裁判員制度の広報活動の中にも東芝よろしく不正経理がありました。裁判員制度の広報業務をめぐって、2005-06年度の2年間に随意契約を結んだ14件、契約金額では計約21億5900万円に上りますが、最高裁判所は事業開始後に契約書を作成するなどの「不適切会計処理」を行っていたのです。
例えば、電通に発注した05年度の「裁判員制度全国フォーラム」(約3億4100万円)では、実際には05年末-06年初めに契約したのに、契約書の日付を05年9月30日に遡らせたりしました。印刷会社に発注したパンフレット作成(約174万円)でも、契約日を実際より約4か月前に偽装しました。16件(計約21億6500万円)の契約で不適切な経理処理をしたのです。これも発覚した分だけで、ほかにもあったかも知れません。
マチダ、シマダ、タケサキ、テラダ、デタラメか。最高裁は、東芝の事件や三菱自動車の事件が裁判になって最高裁に上がってきたらどうするのか。裁く資格が問われそうだ。
ところで、制度の広報という名目の予算計上は2010年が最後なんですね。
当然です。竹崎長官は「順調なスタート」「概ね順調に推移」と言い、寺田長官は「制度は定着した」と言いました。順調で定着している制度を広報する必要はないでしょう。
巨額の予算を使って何が行われてきたかが、こちらの年表です。
一つひとつの説明を始めるときりがありません。このころ私は裁判員制度についてこんな意見や感想をもっていたなぁというように思い起こすきっかけにしていただければ幸いです。
組織内懇談会、法曹三者の談合組織、地裁の法曹三者組織、推進運動集会開催、広報紙誌、映画、DVD、マンガ、キャッチコピー、シンボルマーク、ゆるキャラ、メルマガ、テレビスポット、テレビドラマ、パンフレット、リーフレット、人気女優を次から次へ登場させての新聞大広告、雑誌広告、サイト開設、映画館広告、電車・バスのラッピング車両……。ふーっ。
「湯水のごとく」とか「洪水のように」という言葉がありますが、巨額の血税を悪制度に注ぎ込んだものです。世の中大不況が進行する中で、巨大広告代理店をどんなに喜ばせたことでしょう。発注費用が代理店のいいなりだった事実が国会で暴露されたこともありましたね。
決定的に重要なのはこれが全部無駄になったということだ。何にも役立たず、すべては水の上に浮かぶ泡(あわ)だった。はかなく消えゆくうたかただった。でもこれはうたかたの「恋」ではない。血税をふんだんに使って国民を裁判所に動員する謀略宣伝作戦が大失敗に終わったということだ。
こうも言えるのではないでしょうか。広告万能社会のど真ん中に私たちは生きているけれども、そうかと言って私たちは広告で洗脳されきらない、今回はその実験をやったようなものだと。
ボクもそう思います。商品の宣伝にどれだけお金をかけても、商品そのものがインチキだったら消費者はやっぱり離れる。
こんなインチキ商品にべらぼうな金をかけようとする目的は何だろうというように、市民の関心は別の方向に向かって行くということもわかってきましたね。
♪ 忘れたいことやどうしようもない悲しさにつつまれた時、テラダは酒を飲むのでしょう。飲んで飲んで飲まれて飲んで、飲んで飲みつぶれて眠るまで飲んでー♪
投稿:2016年5月21日
5月2日、裁判員裁判の開廷予定日をホームページで案内するよう最高裁が全国の地裁に指示した。
全地裁が一斉に公開を開始しましたね。東京地裁と札幌地裁と福岡地裁の案内例を紹介しましょう。5月に始まる事件は、東京地裁は覚醒剤取締法違反など6件。札幌地裁は強盗致傷等など3件。福岡地裁は殺人等など2件。
掲載の様式までほぼ同じ。ということは、事細かに最高裁が指示しているということだ。
また電通にでも依頼してレイアウトさせて、横並びの統一スタイルにさせたんざんしょ。
そうかもしれない。出前講義の時は案内の仕方が各地裁てんでんバラバラだった。最高裁の統制がさらに強まった感じだな。
いいことを聞いてくれた。今日は裁判員裁判の開廷日案内について話そう。ただし、この話に入るには、その前に裁判の公開とか傍聴の自由について基本的な説明をしなければならないな。
どうぞ、前でも後でもお好きなだけ話して下さい。ダメだといってもお聞きにならないでしょ。
ふてくされるでない。そもそも裁判は公開せよというのが憲法上の大原則だ。
わかります。最高裁がその原則を踏みにじったとされたのがハンセン病隔離法廷の事件ですよね。
憲法第82条1項は、「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」として、裁判の公開を命じています。また、第34条は、「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない」と定めています。
そうだ。昔から権力者は密室で裁き、密室で結論を出していた。お白州に傍聴席は用意されていないだろ。公開されるのは見せしめの処刑の場面だけだ。
罪を犯したのではないかと疑われた人の人権を守るために、密室裁判を許さないことにしたと。
公開法廷は近代刑事司法の基本原則になった。審理は人が見ることができるところで実施し、判決も人が聞くことができるところで言い渡さなければならないことになったのだ。
公開原則というのは言い換えれば傍聴可能原則ということですね。誰でも傍聴できる条件がととのえられたときはじめて公開されたと言えることになる。
基本的にできる。傍聴できないのは極めて例外的な場合に限られる。事件内容による例外もあるが、一番多いのは傍聴席が埋まってしまってこれ以上人を法廷に入れられない時などだ。
大事件などは希望者が殺到しますよね。行列を作っているって見たことあります。
そういう時には多く抽選になりますが、マスコミが席確保のためアルバイトを動員しているので、一般の傍聴希望者が閉め出されてしまうことがありますね。
裁判所によっても異なる。東京や大阪などの大規模地裁では傍聴者はたいていそれなりの数になる。法廷がいっぱいになることもある。小規模地裁はマスコミに大きく報道された事件でもないとたいてい空いているな。大地裁でも、「殺人・死体遺棄」とか「住居侵入・強姦致傷」とか「強制わいせつ」なんていう罪名だと、ヘンな言い方だが「人気が高い」。裁判員裁判か裁判員裁判でないかということはあまり関係がない。被告人が女性名だったりしたら傍聴席は満杯だな。裁判員裁判でも「覚せい剤取締法違反・関税法違反」とかになると、それも被告人が外人名だったりすると傍聴者は一気に激減して、傍聴席は閑古鳥が鳴く。
うーん。大都市の方が物好き・暇人(ひまじん)が多く、傍聴希望者は簡単に言うとミーハーっていうことですか。
はっきり言ってミーハーだ。勉強のために傍聴する人ももちろんいる。だがほとんどは興味本位のお遊びさ。考えてごらん。裁判物はアメリカ映画の定番の一つだし、日本だって裁判映画や裁判物テレビドラマはけっこう多いだろ。人気ジャンルの一つと言ってもよい。しかも実際の裁判は作り物ではない。「事実は小説よりも奇なり」のおもしろさがある。ドキュメンタリー映画を見ている気分だろう。それに、裁判傍聴は映画と違って何時間見ても聞いてもタダなのだ。
裁判は平日の昼間しかやっていませんから、普通の勤め人や学生は傍聴するのが困難です。平日に休みがある人でも、折角の休日にわざわざ裁判所に出かけて行って、知りもしない人たちの間で起きた事件の法廷を傍聴する気になるのは、よっぽどのマニアに限られるでしょう。
今、「人気」とか「空いている」とかいう言葉が出ましたが、どこでいつ裁判が開かれるというのは、一般の人はどうして知ることができたんすか。
裁判所によって多少違いがあるようだが、東京地裁だったら、裁判所の玄関ホールにその日の開廷予定事件一覧表が冊子になって置かれている。そこで冊子を開いて、何時何分に○○号法廷で始まる何々事件はおもしろそうだということになれば、その事件の法廷に行くのだ。
その事件の関係者などで、どの法廷で裁判が開かれているのかあらかじめ知らされている場合には、冊子を開いたりせず法廷に直行することになるが、それ以外のたいていの傍聴希望者はここに群がる。
確かに群がるという言葉がぴったりしまね。黒山の人だかりで開廷予定事件一覧表にたどり着けないこともありますし。
なるほど、そのあたりの雰囲気はわかりました。で、最高裁は、今回どうして裁判員裁判の開廷予定日を公開させることにしたんすか。ハンセン病隔離法廷を反省して、裁判公開の原則を徹底的に進めるようにしたのなら、刑事裁判全部の日程を公開すべきだし。開廷予定一覧表にたどり着けない傍聴希望者の便宜を図るためならなおさら、全刑事裁判にすべきかと。
いやいや、今説明したのは東京地裁の例だ。しかも一般事件を含めて傍聴の実情を説明したのだ。小規模地裁では、大きく騒がれた事件でもなければ、裁判員裁判でもあまり集まらない。それに「群がる傍聴希望者」はリピーターが多い。傍聴マニアなどの常連さんもけっこういる。
地方の裁判所でも、裁判員裁判が始まった当時はまずまずいたと言えますね。しかしだんだん傍聴に行かなくなり、今ではたいていの法廷は空いている。最高裁はまずそれを何とかしなければいけないと考えた可能性があります。
そうだ。それに、傍聴すれば法壇に坐っている裁判員の観察もできる。裁判員裁判を見物させて、次は自分が裁判員になるという気分になってくれればよいと考えたのだろう。
無理だな。そうは問屋が卸さない。おもしろ裁判を見たいというのと裁判官のようなことをやってみたいというのはイコールでない。近い感覚でもない。裁判物・事件物のテレビドラマを見て、自分の仕事や職業を決める人はまずいないだろ。
わかるもわからないも、とことん追い詰められて、「やれることは何でもやれ」「藁でも掴め」という状況にあるのです。
東京地裁の開廷一覧表に群がる人たちの姿を見た最高裁刑事局の職員が、長官に「裁判員裁判の開廷予定日案内」の掲載を提案したら、「出前講義の失敗」でうちひしがれていたテラダ君が飛びついた。
「群がる人たち」っておもしろ話を探している暇人なんですよね。そんな感覚の人たちを裁判員候補者にさせるのは危なくないんすか。
そこだよ。そこ。最高裁はついに禁断の対策に手を出したのだ。「裁判はおもしろいって思う人たちを裁判所に集めよう、そのきっかけは自分で交通費まで払って裁判所に出かけてくる人たちだ。そんな奇特なお方がいることにこれまでどうして気がつかなかったのか。出前講義なんて売り込みをかけなくても進んできてくれる人たちを突破口にしよう」。そう考えた。
おもしろ話で物を考える人たちによって裁判員裁判を支えさせるのは、ポピュリズムの極致です。さすがに最高裁もこれまで裁判員制度をそういうふうに説明したことはありませんでした。
だが、今や格好をつけてはいられない状態になった。なんと言っても20%は「恐怖の生命線」だ。世間には裁判員体験をおもしろ体験としてしゃべってくれる人もいてくれるし、裁判員を楽しもうなんていう本も出ている。悪魔がテラダ君にささやいたんだな。「こっちにおいで、こっちにおいで」ってね。
なんか、本当らしく思えてきた。今回の裁判員裁判の開廷予定日案内っていうのは、これも裁判員制度の末期現象の一つだってことっすね。
そのとおりだ。制度が発足した時に賑々しく開廷予定日案内も始めていればこれほど問題にされなかったのに、7年も経ってから突如最高裁の大号令で一斉に始めたもんだから、そのおかしさが誰の目にもはっきり映ってしまったのだ。
うまくいかないものはどうやったところでうまくいかないというだけのこと。
投稿:2016年5月17日
愛知県 一弁護士
『朝日』の4月22日号に「『死刑は殺人』元裁判員苦悩」「執行 いまも信じたくない」という4段抜き大見出し、大判姿写真入りの記事が掲載されました。裁判員として死刑判決に加わったあなたの思いを中心にした記事です。
あなたの連絡先がわからないことのほか、私の感想を多くの皆さんがどのように受け止められるかを知りたい気持ちもあり、この欄をお借りしてあなたにお伝えいたします。ご返事をいただければ幸いです。
あなたが関わった裁判員裁判は、川崎市でアパートの大家さんたち3人を刺殺したとして2011年6月に横浜地裁で死刑判決が言い渡された事件です。被告人は判決から4年半後の昨年12月、死刑が執行されました。裁判員死刑判決の初めての執行です。今回の新聞記事はこの事件に関わったあなたが「苦悩」したという話でした。
私は強い衝撃を受けました。あなたの「苦悩」の深刻さのためではなく、浅薄さの故にです。はじめにお願いしておきますが、記事があなたの「苦悩」を正しく表現していないのなら(そうであることを祈ります)、ご指摘下さい。
以下、引用部分は少し段を下げ、「」をつけて示しました。
「死刑がひとごとではなくなってしまった。一般市民が人の命を奪う判決に関わるのはきつい」
あなたにとっては判決(または執行)の瞬間まで、「死刑はひとごとだった」のでしょうか。私はこの記事について何人かの一般の方と話しましたが、異口同音にこの「死刑がひとごとではなくなった」に強い違和感の言葉が出ました。
「死刑制度の是非を自分の問題として考えるようになった」という趣旨なのでしょうが、死刑判決を言い渡してから死刑制度を考え始めるのではなく、そのような事件には関わることを要求された時、あるいは拒絶した時から「死刑がひとごとではなくなる」ものだと皆さんは言いました。あなたはひどく鈍感な人だというのです。
「判決は遺族感情や被告の生い立ちを十分に考慮した結果。自分のやったことを反省し、真摯に刑を受けてもらいたい」。(自分は)判決後の会見でそう話した。
「十分に考慮したので真摯に刑を受けてもらいたい」とは「考え尽くしあなたを殺すことにした。まじめにひたむきに死になさい」ということです。あなたはあなたと同じ市民に躊躇なく死ねと言えた。しかもあなたのその感想は、判決直後の高揚・興奮の所産ではなかったらしい。
「翌月、本人が控訴を取り下げ、判決が確定。『悩んで出した結果を受け入れてくれた』と感じて、ほっとした」
判決から月が変わってもその確信に変化がなかったとご自身がおっしゃっています。「悩んで出した結果」だそうですが、あなたは、公判・評議・評決の中で何を悩んだのでしょう。守秘義務が邪魔をして言えないのならはっきりそう言うべきでしょう。あなたは悩みの内容を何一つ語っていない。
公判初日から物が食べられなくなり、吐き、眠れず、ついには急性ストレス障害になった方がいます。その方は国を相手取って損害賠償請求の訴訟まで起こされました。私は、「まじめに死ぬ」ことを決意して自ら控訴を取り下げたことで「ほっとした」あなたに、本当に苦しむ裁判員とは真反対の「普通でない人」を感じます。
「まもなくして、裁判員の経験を話した親しい友人にこう問われた。『人を殺したのか?』 胸を突かれた。考えてもいないことだった。死刑は誰かが実行する『最も重い刑』という認識で、間接的にでも自分がかかわって『人を殺す』という意識はまるでなかった」
驚きました。言うまでもなく死刑は官許の殺人です。法によって処罰されないだけでその実体は明白に犯罪です(懲役刑や禁固刑を言い渡すのも官許の犯罪監禁です)。あなたにはその質問が「胸を突かれるほど衝撃的なこと、考えてもいなかったこと」だったそうです。そのような意識でよく裁判所に出かけられたものです。
私は、あなたの友人に「普通の人」を感じ、あなたに「普通でない人」を感じます(付け加えますが、あなたはこの事件で被告人に死刑を言い渡すことに賛成したと私は理解しています。明記されていないだけで、あなたはそのことを前提として説明していると読めます)。
あなたの疑問は友人のあなたに対する問いかけに始まったということです。
「『本当によかったのだろうか』。振り払っても振り払っても疑問がわき上がった。つらかった。心にふたをし、忘れようとした」
たいそうな反省譚です。でも、うそくさい。「振り払う」というのは、審理していた当時のご自身の見方が正しかったと思い直すことでしょうか。「わき上がる疑問」の中身は何ですか。友人から問われるまで、あなたのあたまの中にはかけらほども存在せず、一方友人の問いかけ以降振り払っても振り払ってもわき上がるようになったという疑問とはいったい何か。その中身が私には(おそらく誰にも)まったくわかりません。
「心にふたをし、忘れたくなった」ほどのあなたの疑問の中身を言葉で言ってみてください。友人の問いかけは裁判からそれほど経過していない時期のことでしたね。判決から昨年12月の死刑執行まで4年半です。その間に起きたらしいあなたの心の大転換が私には全然理解できません。このことについては後で触れます。
「『死刑は、法という盾に守られた殺人行為に変わりはない』。我がこととして悩み、苦しむうちに、今は死刑反対の気持ちが強くなった」
そうですか。ひとごとが我がことになるのにずいぶん時間がかかったようですが、またなぜ変わったのかもよくわからないが、とにかく変わった。しかし、その行き着いた結論は裁判員制度反対ではなく「死刑反対の気持ち」だったと言う。人を裁くことはよいが死刑はいけないのですか(あなたは懲役や禁固は犯罪にならないと思っているのではないでしょうね)。あなたの問題意識が裁判員制度反対に向かわない理由を私は推測できます。そのことも後に述べます。
「僕らが要請しているのに執行していることに憤りを感じる。裁判員裁判による死刑判決がバタバタと執行されてゆくのではないか」と危機感を抱く。
今度は「憤り」ですか。あなた方が要請すれば執行は止まるというほど死刑問題が簡単でないことはあなたでもわかるでしょう。「裁判員裁判による死刑判決がバタバタと執行されてゆく」ことを懸念するのなら、裁判員制度をまず止めさせたいと考えるのが普通でしょう。死刑が言い渡される事件のほとんどは裁判員裁判です。
あなた自身、「一般市民が人の命を奪う判決に関わるのはきつい」とおっしゃっているではないですか。二つのことをともに追求すると言わないところにあなたのインチキがある。
しかもあなた方がやっているのは「死刑に関する情報公開や暫定的な執行停止」に過ぎない。つまり、あなたは裁判員制度反対ではなく、死刑制度反対でもない。「危機感をもって」ぬえのような行動をしているということです。
「声を上げる必要があると、今回、実名で取材に応じた。『立ち止まって考えてほしい』『もう二度と裁判員はしたくない』」
あなたはとうに実名を公表し写真も出して取材を受けている。裁判員裁判のプロパガンダ本『裁判員のあたまの中』(現代人文社。13年11月刊)では裁判員経験者として登場し、よくもこれだけしゃべるなと思うほどしゃべりまくっています。大『朝日』には初登場というだけです。
あなたは「立ち止まった皆さん」に何を考えてほしいのですか。死刑を市民に言い渡させることの是非か。では懲役や禁固ならいいのか。あなたが二度とやりたくないのはすべての裁判員裁判ではなく、死刑裁判事件の裁判員だけなのか。
あなたはどこからどこまでいい加減です。でたらめと言ってもよい。物を深く考えない、あるいは深く考えることができない人です。『裁判員のあたまの中』からあなたの発言を紹介します。ここがさきほど後で言うと言ったところです。原文は延々たるおしゃべりですが、ポイントだけ拾います。
「何でもやってみたいと思って行った」
「父もやりたかったみたい(笑)」
「自分の番号が出て『当たっちゃったよ!』と」
「裁判長の提案で全員が自分の趣味を話した」
「みんなに『何で辞退しなかったの』と聞かれ、『やってみたいと思った』と答えた」
「父には『何で選ばれるんだ。何でおまえなんだ』と完全に嫉妬(笑)」
「『あんたにできるの?』と母に言われた瞬間、心に火がついた。『やってやろうじゃないか! やりきってやる!』」
「初入廷は気持ちがよかった」
「死刑求刑時は『やっぱりか』と」
「評決の時は達成感があった」
「(判決後)父親からは大変なことをしたなと言われた(笑)」
「間接的とはいえ人を殺すのは重い判断だ。でも後悔はしていない。参加してよかった」。
これがこの本であなたが吐露する心境のポイントらしきものです。この本が出版された13年11月頃と言えばあなたは「振り払っても振り払っても疑問がわき上がった。つらかった。心にふたをし、忘れようとした」。そういう時期だったのではないかと思われますが、この話しぶりは脳天気の極みで、到底そのようなお悩みは想像できません。
『朝日』よりはるかに率直で、悪びれてもいない。やりたくてしょうがなかった裁判員裁判をやれてよかったよかったと笑いながら自慢げに言っている人、はっきり言わせてもらうと、失礼ながら少し知恵の足りない薄っぺらなお調子者を思い浮かべます。
あなたは、裁判員制度に納得していない訳でもなく、死刑制度に正面から反対を言っている訳でもない。つまり何でもない。そういうあなたがメディアに露出しようと思った動機は何でしょうか。あなたは誰かにそそのかされてひょいひょい動き回っているだけですか。
『裁判員のあたまの中』の編著者は、裁判員裁判に裁判員として参加し、爾来この制度の宣伝に一役買っている人物です。この本の「はじめに」でも、裁判員の体験を公にすることは裁判員制度にも法曹界にも有益のはずだと言っています。これほどみんなに嫌われている裁判員制度について、市民の関心を何とか制度に引きつけたいと「孤軍奮闘」しています。死刑廃止運動などにも顔を出したりしているとも聞きます。「裁判員制度推進は社是・死刑制度については方針あいまい」の『朝日』に米澤氏を登場させたのは誰なのか、考えさせられます。
米澤さん。私の指摘や推測に間違いや誤解があるのならそのことをぜひご指摘下さい。誤解の解消は私の望むところです。
草々
追伸 大久保真紀 様
さて、この記事はあなたの署名入り記事です。大久保さんにも一言だけ申し上げておきたい。あなたは米澤さんの見識のどこに惹かれたのでしょうか。あなたはこの方のどこに本物を感じたのですか。ヒューマンストーリーは『朝日』の売りの1つですが、あなたは米澤氏の話にヒューマンなものを感じてこの記事をまとめたのしょうか。そうだとしたら記者としてお粗末です。あなたは『裁判員のあたまの中』をもちろんお読みになっていると思いますが、その内容に疑問を持たなかったのでしょうか。
私はあなたの文章の鋭さを以前から注目してきました。普通なら一歩引いてしまうところでもめげず切り込む、対象に深く入り込み問題を大胆にえぐり出す。批判を受けてもひるまない反骨精神と人を深く観察する姿勢があなたの真骨頂だと思っていました。しかし、今度のあなたの文章ばかりはまったく納得できません。
あなたはこれまで裁判員裁判についてあまり取材も勉強もしてこなかったのではないでしょうか。今回の記事はそのことを推測させます。裁判員制度を批判する書籍文献はたくさんあります。推進する立場からの出版物もあります。あなたはガイダンス本『裁判員をたのしもう!』をお読みになりましたか。
『裁判員のあたまの中』と同じ出版社から出ている本です。この本は米澤さんのように楽しみながら裁判員をやってみようと思う市民を増やそうという狙いで作られたものでした。「楽しみながら刑事裁判に関わる」という考え方を大久保さんはどのようにお感じになりますか。
裁判員制度は、『朝日』を先頭とするマスコミの全面支援にもかかわらず国民の支持をほとんど失い、いまや風前の灯です。『朝日』の編集委員として大久保さんにはもう少し勉強をしてほしい。ご研鑽とご自愛をお祈りします。
投稿:2016年5月14日
著者の内田博文先生は神戸学院大学教授で九州大学名誉教授。福岡市会議員荒木龍昇さんと一緒に地域に根ざした救援組織「福岡市民救援会」の共同代表を務めています。この会にはインコもマネージャーもご縁がある。先生は今話題のハンセン病関連の「菊池事件」の再審運動の中心にいる方でもある。
先生からは、「誘導される『国民世論』と裁判員裁判」とか「菊池事件と裁判員裁判」などのタイトルで、インコのトピックスにもご投稿をいただいていますね。
そう、この分野のキー・パーソンのお一人。先生は、今年2月28日に開催された「福岡市民救援会」第4回総会で、今国会にかかっている刑事訴訟改悪案についても講演された。
ますますキー・パーソンです。インコさんは内田先生からこのご本を戴いたんですって。
サン・ジョルディはカタルーニャ地方の守護聖人。302年、ディオクレティアヌスローマ皇帝に棄教を迫られて4月23日に殉教。サン・ジョルディが退治したドラゴンの赤い血がバラになったという言い伝えから、カタルーニャではこの日男女が赤いバラなどを送りあう。20世紀初めから本を送る風習が加わった。4月23日は、セルバンデスの命日でシェイクスピアの誕生日で命日。本屋のプロモーションが成功した。ジョルディはキリスト教では聖ゲオルギオスと言われ、英語でジョージ、イタリア語でジョルジョ、フランス語でジョルジュ、ドイツ語でゲオルク、ハンガリー語でジェルジ、ロシア語でゲオルギー、日本で博文。
はいはい、で、インコさんはもうその本は読みましたか。
「第一部」が戦時体制下の国民と法、「第二部」が治安法制の論理。439頁の大作だ。少し要約しながらインコの心に響いたところを紹介する。
今、私たちが置かれている状況は、昭和3年と似ている。戦時体制の形成に向けて下準備が進められつつある。このままでは「ルビコン川」を渡るのも時間の問題といえる。戦時治安法制の制定も早晩予想される。
しかし、昭和3年の段階ではまだ引き返す選択肢もあり得た。満州事変に直線的に進んだわけではなく軍部と政党の間で激闘が繰り広げられたことが明らかにされている。当時の「世論」は軍部に与し、引き返すという選択肢を放棄したが、私たちには「ルビコン川」を渡らないという選択肢はまだ残されている。まして現在は、日本国憲法で保障されている国民主権の時代。引き返すかどうかは主権者である私たちの選択にかかっている。
じーんとくるだろう。先生は、「歴史から学ぶ」として次のようにも書いている。
治安維持法体制は戦後も温存され、検察官に対する強制処分権の付与も、検察官が作成した捜査段階の供述調書への証拠能力の付与も見直されていない。そのことは戦後の日本の刑事手続きが冤罪を生む構造的な要因になった。今もって見直しが予定されていないことは、戦後治安維持法の検証が十分に行われなかったためだ。治安維持法は刑罰法規であったのにその研究はもっぱら歴史学や政治学などでなされてきた。これでは過ちが繰り返されかねず、今や再び過ちを繰り返そうとしている。
裁判員制度についても、先生は次のように指摘している(第二部第13章「司法改革という名の換骨奪胎」)。
戦後、日本国憲法と刑事訴訟法の規定の間に大きな乖離が生じたが、裁判員制度導入を契機としてこの乖離を埋めていこうというような発想は、司法制度改革審議会にも政府にも裁判所にも検察庁にもなかった。あくまでも現行刑事訴訟法の枠組みを前提としたうえで、刑事裁判に対する「国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」という以上のものではなかった。
最高裁事務総局によって、「法曹が払ってきたエネルギーは、我が国の司法制度の歴史の中でもまれなほどに膨大なものがある」と自負される裁判制度は、平成21年5月21日の施行以来、6年余りを経過した。
先生は、裁判員制度導入に現れた刑事司法の大きな変化は「被告人の保釈」にあると言う。以前より保釈が認められるようになったがそれほど喜べる話ではないと。それは「公判前整理手続きにおいて公判審理が実質的に先取りされた結果」だと言うのだ。
裁判所が公判前整理手続きの開始を公判開始と同じように考えているから、公判開始時には被告人の処遇について結論を出してもよい状態になっているっていうことですよね。っていうことは、「裁判が始まる前に終わってる」ようなものじゃないですか。保釈が増えて当たり前でしょう。
増え方があまりにも少ないと言うべきだろう。先生は量刑もより重い方向に変わったと言い、「殺人未遂、傷害致死、強姦致傷、強制わいせつ致傷、強盗地致傷の各罪で、重い方向にシフトしている」と指摘する。
例えば、実刑判決の事件で求刑以内に収まったのは、裁判官裁判では97.9%だったが、裁判員裁判では94.2%に減った。つまり求刑越えが増えているということだ。
保護観察付き執行猶予の増加傾向について調べると、裁判員裁判で執行猶予付き判決に保護観察が付く割合が、裁判官裁判の35.8%から裁判員裁判の55.7%に大幅に増加していると言う。
執行猶予は無罪と同じだと受け止める裁判員たちの不満を抑えるための仕掛けじゃないかしら。
ただの執行猶予では納得しない裁判員たちをなだめる策に使われている可能性は高い。保護観察を「悪人常時監視方式」として喜ぶ監視カメラ歓迎傾向にも関係があるだろう。
裁判員裁判に対する控訴審の姿勢についてはどのようにおっしゃっていますか。
まず、控訴率を見ると、裁判官裁判では34.3%、裁判員裁判では34.5%とほとんど変わらないが、検察官の控訴申立てが大きく減り、弁護側の控訴が大きく増えているという。
裁判員裁判の結果に満足しているのが検察、不満なのが被告人・弁護人ということじゃないですか。満足と不満が等量ですか。何という合理性かと納得します。
控訴審で取調べが行われた事件は、裁判官裁判では78.4%だったのが裁判員裁判になって63.1%に落ちたという。また、被告人質問の実施結果を含めたすべての証拠調べ実施事件も、裁判官裁判では41.0%だったのが裁判員裁判になって23.9%に減ったという。
すごい減り方。控訴審は一審の結果をチェックしないようになったんですか。
先生は、上訴審は検察側に傾斜した第一審を「是正」する場ではなく、「追認」する場になっているとしている。
最高裁が「裁判員裁判の判決を尊重せよ」と号令を発した結果ですかね。
そうだろう。先生は、一方、裁判員裁判によって変わらなかったものとして「日本型刑事裁判手続きのほとんど」をあげ、日本型手続きの典型は「公判における書面審理」だとされる。また、変わらなかったものとして「無罪率」を上げ、正確には微減していると言うべきだとされる。
インコさんも「裁判員裁判はえん罪を確実に増やす」でそのことを論じましたね。
裁判員制度に対する先生の結論は、「裁判員裁判の導入は、日本の刑事訴訟の意義に『国民の理解』を加味したものと言えるが、それが現実に果たした役割は重罰化以外には見るべきものがなかった」というものだ。
あいやー。最高裁事務総局が「法曹が払ってきたエネルギーは、我が国の司法制度の歴史の中でもまれなほどに膨大だ」と言ったけど、結果は重罰化で、それだけだったと。
先生は、重罰化については、特に「裁判員裁判による重罰化」という項を立てて論じている。この中では、「死刑(の判決言い渡し数)も変わらなかったことの一つ」とされている。
制度推進派の弁護士の中には「市民は死刑判決を避けたがるだろうから、言い渡し数は減るだろう」と期待した向きがありましたけど。
国民救援会も「ヘンリー・フォンダを探しています」とか言ってた。でも、始めてみたら、「悪人を裁くのは私だ」「市民の声に従え」「控訴するな」って感じの人たちが集まって来るようになったし。
先生は、「死刑判決は量的にはほとんど変化は見られない」としつつ、「『行き過ぎた』死刑判決が上訴審で是正される」例はあると指摘されている。
一審判決を尊重せよと言ったり、「裁判員裁判であっても先例から外れた判断をすることは認められない」と言ったり、最高裁もグダグダですから。
「国連の勧告」の項では、死刑問題に対する最高裁や日本政府の姿勢を批判し、死刑判決に対する必要的上訴制度が必須だとしている。死刑判決であるにも関わらず自ら控訴を取り下げる被告人に対する次の一文を紹介したい。
「ハンセン病強制隔離政策を下支えした『無らい県運動』などが作出し助長したハンセン病差別・偏見によって家族が迫害されるのを恐れ、家族を守るために自らハンセン病療養所に入所したハンセン病患者や家族が社会から迫害されるのを恐れて自ら戦地に赴き戦死した元思想犯の姿と重なって映る。」
「元裁判員の苦悩」という新聞記事では、「死刑判決を受けた被告人が控訴を取り下げたことに、元裁判員は『自分たちの判断が受け入れられた』」と喜んでた。
「死刑判決を受けた被告人に控訴するな」と言うことは、「お前は死ね」と言うのと同じです。何の権限も持たない一般市民が公権力を行使するところに裁判員制度の怖さと本質があります。
最後は、「刑事訴訟の目的のさらなる変質」というタイトルの項だ。この中で、犯罪被害者の問題を取り上げる。「犯罪の被害者は誰かということも重要である。戦時下には個人的法益に対する罪が国家的法益に対する罪に転化する。当該犯罪の被害者も個人ではなく国家になる」と指摘している。
被害者遺族が登場する場合と登場しない場合で量刑が変わってくる可能性も考えなければいけませんね。家族間殺人とそれ以外の殺人の量刑差の問題もあるでしょう。
先生は、刑事手続のカウンセリング機能の問題にも触れている。カウンセリング機能というのは「取調べは証拠の収集といった観点からのみ必要とされるものではなく、犯人に真に反省悔悟を促し、可能な限り早期に被害回復を実現するためのものでもある」という考え方だ。
いや、そういう見方には批判もある。先生は、戦後の日本の検察官は捜査、公訴提起、公判、上訴、矯正、更生保護に至るまで、検察官の権限がいかに巨大なものであるかを詳しく説明している。そして「戦後の日本の刑事裁判の三審制は、底流では思想犯の保護観察や予防拘禁の影響を強く受けていた。刑事手続きのカウンセリング機能の強調は古くて新しい主張だ」と結んでいる。
裁判員制度の問題点に関する先生のご指摘についてのガイダンス、ありがとうございました。ところで、それ以外の先生の論考のご案内は?
私たち、内田博文先生の『刑法と戦争』(定価4600円+税 みすず書房)を読んでみました。刑事司法という角度から見た現在という時代がよくわかります。
(わかるような気がします)
投稿:2016年5月10日
最高裁長官の憲法記念日記者会見の話はほとんどハンセン病隔離法廷問題だったが、インコは裁判員問題に絞ってコメントした。しかし、実はハンセン病隔離法廷の問題についても言いたいことがたくさんあるのだ。今日はこのことを取り上げて、最高裁を裁こうと思う。
先月25日に最高裁が公表した調査報告書のことですね。「患者の人格と尊厳を傷つけたことを深く反省し、お詫びする」と謝罪しました。最高裁裁判官会議も「心からお詫びを申し上げる次第です」という「談話」を発表しました。
マネージャー、報告書公表に至る経過を簡単にまとめてくれる、じゃなかったまとめてください。
2013年11月、全国ハンセン病療養所入所者協議会などが最高裁に要請書を出しました。裁判の公開を求める憲法37条や82条1項に違反する特別法廷について、第三者機関による検証と公表を要求したのでした。今回の報告はこれに基づくものです。
第三者機関というのは、当該組織には正当・公平な判断能力がないと思われる時に設置される。世の第三者機関はすべてそうだ。元患者さんたちがいかに最高裁を信用していないかがわかる。
最高裁の動きはのろかったです。内部に調査委員会を設置したのが半年後の翌14年5月。要求された第三者委員会に至ってはひどいもので、それから1年4か月も経った15年9月、有識者委員会(座長・井上英夫金沢大学名誉教授)を設置したのは検証要求から1年10か月も経過していました。
1948年から1972年の間に96件の特別法廷許可申請があり、1件の申請撤回を除く全件について特別法廷が指定されました。憲法82条は最高裁裁判官会議が全員一致で決めなければいけないと定めているのに、48年以来裁判会議はその判断を全部事務総局に丸投げしていました。報告書は「事務総局内で処理されていたと推認される」という言い方でこれを事実上認めています。
しかし、「遅くとも60年にはらい予防法の隔離規定の違憲性は明白だった」と認めた2001年の熊本地裁の判決(確定)に基づき、02年に設置された政府の検証会議は、05年の最終報告で、隔離政策を未曾有の国家的人権侵害と断じ、最高裁の特別法廷指定は憲法の定める「法の下の平等」「裁判を受ける権利」「裁判の公開」に反する疑いがあると指摘しました。
えっ、そうすると今回の最高裁報告は政府に11年遅れたのですか。
いえいえ、その見方は甘いですね。11年経っても政府に追いついていません。今回の調査報告は政府の報告よりずっとあいまいで中途半端です。
いま紹介した「認定事実」に基づいて調査報告書は次のように「検討」をしています。
「最高裁は特別法廷の指定が真にやむを得ない場合かどうか慎重に検討すべきだったのに定型的な運用をした」
「遅くとも60年以降は運用が不相当だということを事務総局が裁判官会議に諮らなかったのは相当を欠く」
「合理性を欠く差別的な取り扱いが強く疑われ、裁判所法69条2項(特別法廷)に反する」
「しかし運用の問題は裁判の公開の問題には直ちにつながらない」
「裁判所の掲示場や開廷場所の正門などに開廷を告示していたと推認され、刑事収容施設や療養所は一般国民の訪問が不可能だったとまでは断じがたい」
気づかなかった事務総局が悪い、裁判官会議に諮らなかった事務総局が悪い、裁判官会議には責任はない。そう言っているように読めます。ところで、「運用の問題は裁判の公開の問題には直ちにつながらない」ってどういうことですか。
事務総局が簡単に特別法廷を許可したのは運用に問題があった、その責任は最高裁にある、しかし公開原則に抵触していたとまでは言えない、正門などに法廷が開かれることが掲示されていたようだし(=「推認され」)、事実上非公開だったと断定まではできない。報告書はそんな言い方をして、「端から許可」は正しい運用ではなかったけれど、だからと言って公開原則に違反していたとまでは言えないと言っているのです。
へ理屈のへそですか、へんな話。「裁判の公開」って誰でも裁判を傍聴できるっていうことでしょう。ハンセン病患者を隔離する場所って、患者はよほどのことがない限り外に出られず、患者以外の人たちはよほどのことがない限り中に入れないところなんじゃないですか。
最高裁は再審請求が相次いで起こされるのを極度に恐れている。公開の原則は憲法上の要請だ。ハンセン病被告関連事件はすべてこれに反していたということになれば、最高裁が全責任を負う特異な再審請求運動に火がついてしまう。
最高裁としては「公開原則に違反している」とは口が裂けても言えない。裁判官会議の「談話」も裁判公開の問題には一言も触れていない。
政府の検証会議も「裁判の公開に反する疑いがある」と指摘していました。最高裁有識者委員会も「一般の人々に実質的に公開されていたとするのには無理がある。違憲の疑いは拭いきれない」というものでした。
どこかに掲示を出したとか収容者や職員などが傍聴できたとかで「公開」を保障したことになると言うのは、最高裁が公開原則をいかに適当に考えているかということを証明しているようにも思えます。
政府の検証会議副座長の内田博文九州大学名誉教授も、「違憲性を明確に認めなかったのは不十分。すさまじい偏見の時代に一般市民が隔離施設に入って傍聴したとは考えられない。報告書は問題の本質を理解していない。誤った手続きで行われた特別法廷の判決が適正だったかどうかも見直さなければならない」とおっしゃっている(『読売』4月26日)。
4月26日の『朝日』は、「責任負わぬ最高裁 理不尽だ」「ハンセン病元患者ら怒り」という見出しで、間違いを真摯に認めない最高裁を批判して、国立療養所菊池恵楓園(熊本県合志市)の入所者の皆さんが記者会見し、「司法の責任は不問にされたに等しく、到底受け入れられない」と述べたと報道しています。
ボクも読みました。同じ日の『読売』は、「『違憲』なき謝罪 反発」「元患者ら『理不尽だ』」という見出しを掲げ、志村康入所者自治会会長の「患者らの人権をないがしろにする政策が司法にも染みついていた。(違憲と判断せず)こんな理不尽な話はない」という言葉を紹介しています。
これって最高裁は第三者委員会の結論を尊重しなかったということですか。
第三者委員会の意見を求めていた元患者さんたちが怒るのは当たり前ですね。
最高裁の「公開と見なせる」論がどんなに現実離れしたものかを裏付ける例として、隔離の必要性が失われていたとされる(熊本地裁判決)1960年の2年後に死刑が執行された菊池事件(殺人未遂・逃走・殺人等、被告人Fさん)の裁判の模様を説明する一文を紹介しよう。
「特別法廷は消毒薬のにおいが立ちこめ、被告人以外は白い予防着を着用、ゴム長靴を履き、裁判官や検察官は手にゴム手袋をはめて証拠物を扱い、調書をめくるのに火箸を用いた。取り調べも裁判も予断と偏見に満ち、被告人の裁判上の権利も認められないずさんな裁判で死刑が言い渡された」と。
これでどうして公開原則が保障された(保障されなかったとは言い切れない)なんて言えるのか。
熊本地裁は60年以前の運用を問題にせず、最高裁もそれ以前の運用を問題視しませんでした。符節が合いすぎているようにも思いますが。
このことあるを見越してってか。うーん。もしそうなら、「大津事件児島惟謙」以来の、と言ってもわからないか、少なくとも「長沼ナイキ基地訴訟」以来の大問題になるな。
それとも熊本地裁が最高裁に配慮した「あうん」の判決だったのでしょうか。
そうかもしれん。ヒラメ裁判官の「あうん」判決はよくある話だ。ともかく、熊本地裁の判断も問題大ありさ。
最高裁がハンセン病患者の特別法廷を初めて認めた48年というのはハンセン病の有効な治療薬が導入された年なんですってね。
そうなのだ。72年までの全95件のすべてについて最高裁の対処が間違っていたという議論に進むのを何としても抑えたいという思いが最高裁報告にはにじみ出ている。
政府の検証会議も「60年以前から運用を見直すべきだった」と言っています。
そう考えるのが常識というものだ。まとめに入ろう。最高裁に対するインコの判決だ。第1は、最高裁が謝罪したことの重大性だ。民事事件であれ刑事事件であれ、世の中の紛争や対立の最後の判定の場が裁判所になる。だから裁判所は公正・公平・中立・正義・信頼・真実などの言葉が一番当てはまる役所と一般に思われてきた。
昔の映画に「お母さん、まだ最高裁がある」っていう言葉があったって聞きました。
八海事件に材をとった今井正監督の映画『真昼の暗黒』だ。世の中に対立があり、一方が責任を追及し、他方は責任はないと言う。争いの果てが裁判所の出番だ。すると裁判所はこのケースについてはAはBに責任をとれとか、あのケースについてはBはAに謝罪せよなどと言う。刑事裁判も司法の役割の根本構造を言えば同じ仕組みだ。
最高裁はこれより先がない最終の司法機関です。正義の砦、平たく言えば市民生活のメートル原器のようなもの、かな。
素朴にそう考えてきた市民は少なくないでしょうね。その裁判所がお詫びをせよと言われたり、実際にお詫びをしたりするということになると、正義はいったいどこにあるのかとか、裁判所の不法の責任追及はどこに持ち込めばいいのかということになります。
それもただ1回の裁判ではない。最高裁という日本の司法の最高責任者が過去20年以上にわたって何をしていたのだという話だ。九州各地の皆さんに申し訳ない喩えになるが、東京・三宅坂を震度7クラスの激震が連続して襲い、あの最高裁城が揺れっぱなしに揺れている。5月2日の長官記者会見ではその実情がリアルに窺えた。
とにかく遅すぎませんか。ハンセン病問題については政府だけでなく国会もとっくに謝罪決議をしているんでしょう。
国会も政府と同様、2001年に元患者さんたちに謝罪している。ここで判決の第2は、間違っていたと言うのに行政や立法より15年も遅れる最高裁のでたらめさだ。
そう、最高裁という役所は、実を言うと公正・公平・中立・正義・信頼とはかなり遠いところにいる。真実を真実と認めることより政治権力や社会的な強大勢力を重視する。建前や形式にむやみにこだわる。そして自分たちの間違いを認めず、誤りを指摘されるとごまかしたり無視したりする。
ハンセン病国賠訴訟を担当された八尋光秀さん(福岡県弁護士会)の言葉を借りれば、「社会常識、社会通念、社会道徳、宗教観、良心、美意識に至るまで」あらゆる価値観を誤らせた最高裁の責任はたとえようもなく重大だ(八尋さんの言葉はオフィシャルサイトをご覧下さい)。
議員定数の問題などでは、最高裁は何も決められない立法に切り込む正義の士のようにも見えますが、あれは何ですかね。
それこそ民意を最高裁に引きつけるパフォーマンス、人気取り司法政策さ。それが証拠に、原発に関する最高裁の判決を見なさい。刑事司法の根幹に関する最高裁の姿勢を見なさい。「この国の姿」を決める話になれば、虚言、欺瞞、恫喝、偽装、隠蔽のオンパレードなのだよ。
そう、裁判員制度に極まると言ってよい。この制度も答申からちょうど15年だ。制度がいくら順調に進んでいなくても順調と言う。嫌がる人たちがどんなに多くても良い体験をしたと言っている人がたくさんいると言う。多くの人たちが出頭を拒絶してもそのことに触れない。法廷中心にしようなどと言いながら捜査当局の捜査結果を絶対のベースにする。
さて、裁判員制度に引きつけて判決の第3だ。それは年貢の納め時がついにきたということさ。世の中に最高裁不信が急速に高まっている。制度を何とか生き延びさせようと必死の努力をしたが、東日本大震災・福島第1原発事故がアッパーカットになり、未曾有の不況がボディーブローになりと次々襲いかかってきた。どう対処しようとしてもうまくいかない。そしてついに限界にきた。
わかりました。そこにハンセン病隔離問題が最高裁を襲ったということですね。裁判員制度が始まる前に謝っていれば、裁判員裁判に関わることはなかったのに、元患者さんたちの声を無視しているうちに裁判員制度の破綻と時期が重なってしまったという感じですね。
そういえば、国民動員というカードは諸刃の刃でしたね。失敗するとオセロのように相手方のコマが一気に増える。最高裁がいくら参加を呼びかけても出頭する裁判員の数が減り続けているのは、最高裁に対する国民の反撃でしょうか。
そうだ、バーナムの森が動いている。世の中の最高裁に対する見方が「公正・公平・中立・正義・信頼・真実」から「虚言、欺瞞、恫喝、偽装、隠蔽」に大きく軸足を移しつつある。そのことをこの人たちはわかっていない。いや、わかっているのだが、ごまかし通せるものと考えてきた。それが今や無理になった。
マスコミだの日弁連の推進派だの、最高裁や政府の制度護持勢力と悪縁・腐れ縁を作っちゃった人たちはご苦労なさっているのかもしれませんが、そういう人たちとは無縁の善良なる市民はみんな安堵の胸をなで下ろせます。本当によかったですね。
投稿:2016年5月6日
恒例の最高裁長官記者会見のコメントでーす。記者会見が恒例なのかコメントが恒例なのかって? インコのコメントが恒例なのでーす。記者会見はみんな待っているかどーか知らないけど、コメントはみーんな待っててくれるからねっ。
(ホントかしら。ま、そのくらい自信過剰でないとやれないかもね)
5月3日は憲法記念日。各紙の朝刊にはテラダ長官の記者会見のお言葉が並んでいるのです。今年も、『朝日』『読売』『毎日』『日経』『産経』『東京』の6紙に目を通してみました。この記者会見は例年5月2日に行われ、各社参加1名と制限されている。会見風景の全体写真も出ない。出るのはいつも長官のどアップ顔だけ。不思議な記者会見です。
(インコさんは、確かにこの日は朝早くから羽ぐすねひいて新聞の配達を待ってる)
連休中でぼおーっとしている皆さん、あいや失礼、この部分は撤回します。お休みでお忙しい皆さん。そして連休関係なく働いている皆さん。各紙の読み比べなんてしないでしょ。比較記者会見なんてくそおもしろくもないって思ってるでしょ。でも、各紙の報道は微妙に異なる。どこを切り取るか、そこが出席記者の腕の見せ所なのかもしれない。けっこうおもしろい時がある。
さて、今年の記者会見で長官が裁判員制度について何と言ったかというと、何も言っていない。裁判員裁判の話がまったく出なかった。制度開始以来初めてのことだ。会見のほとんどはハンセン病隔離法廷の話で埋まった。
いや、今回は新聞社によって対応が大きく分かれた。『読売』が提灯の極、『朝日』が冷徹の極。
顔写真と言えば、寺田長官は竹崎前長官退任の時からご面相がインコさんの餌食になっています。またいろいろ言われるのではないかと。
それほどでもない。人のご面相のことはあんまり言わないのがインコの主義です。一言だけ言っておく、この人の顔はつまらない。
今回の各紙の記事ぶりをどう見るかだが、「ハンセン病隔離法廷で最高裁謝罪」から1週間というタイミングの問題がある。つまりニュースバリューの大きさだ。しかし、「隔離法廷謝罪」集中の事情はそれだけではないぞ。
最高裁にはハンセン病隔離法廷の責任問題はこれで終わりにしたいという思惑がある。詫びの連打で幕を引く「決着狙い」だ。
詫びの連打ですか。でもそんなに間違った間違ったと言ってしまうと、責任はいっそう強く印象づけられるのでは。
違う。最高裁調査報告のでたらめさについてはあらためてじっくり解説する。読者の皆さんにはぜひそれを読んでほしいが、結論だけ言えば、最高裁はそんなに間違ってはいなかったと開き直っているのだ。それほどのことでないのに痛恨事とまで言って頭を下げてるのだからもういいだろうとそう言ってるんだ。
それで今回の記者会見でも、「謝罪しながらも憲法違反と認めなかった」ことへの批判に関する質問が出たんですね。
そうさ。4月25日の裁判官会議のお詫びに続いて今回も長官はあいまいな答弁に終始した。そこに最高裁の汚さがある。
ハンセン病隔離法廷問題に集中したもう一つの狙いは、言うまでもないことだが、憲法に直接関わる「安保法制」問題や、断崖絶壁に追い詰められた「裁判員制度」などから国民の目をそらすことだ。
質問の中では安保法制や憲法改正の是非について最高裁としての見解が問われました。
「裁判にかかっておりコメントを控えたい」とか「国会や社会全体で決めることだ」なんて言って逃げた。ハンセン病関連事件だって再審請求などが出されていて問題は現在進行形だ。何といい加減な返事をするのかと呆れたね。憲法の番人という言葉はこの人の辞書にはないと見える。
裁判員制度についてはまったく触れませんでした。一昨年は『共同通信』が配信したアンケートで「定着したと思う」が3%しかいなかったことが全国に伝わりました。それを知らないはずのない寺田長官が「制度は定着しつつある」とか「おおむね円滑」などと言ったので、みんな口あんぐりになりましたね。
一昨年は、一審の裁判員判決が高裁でひっくり返る例が相次ぎ、国民の裁判員離れがマスコミからも指摘されていた。去年もその状況に変わりはない。それだけじゃない。去年の暮れには裁判員死刑判決の初めての執行もあり、今年2月には出頭率がついに20.9%まで下がった。2割割り込みは目前だ。もう完全に後がない。
惨憺たる状況を前に、推進の先頭に立った最高裁もお先棒を担いだマスコミも、ここは黙ってやり過ごすのが一番と考えたんですかね。
そういえば去年は寺田長官は、「裁判員裁判の審理が十分ではないとも言われる。審理の在り方に工夫が必要」なんていうことも言っていました。
年に一度の記者会見だ。少しでも状況がよくなったのなら、こんなに良くなったと言うに決まっている。彼らはそれを言いたくてしょうがないのだ。つまり今回の無言劇は良いことが何一つなかったと告白しているに等しい。「神は語らぬ所に宿る」ってね。
厳しい言い方をすれば、今回は騙しと隠しの長官記者会見ということになりますか。
これから最高裁は裁判員制度についてどう対応していこうとしているのでしょうか。
万策尽きかけているな。このところ続いている株価の暴落と同じように、最高裁の株がどんどん下がることだけは明らかだ。そして少しも損をしない国民は、冷ややかに観察し続けるだろう。
『朝日』 社会面にたった一段ものの記事でわずか25行。写真なし。見出しは「ハンセン病法廷 最高裁長官謝罪『二度と繰り返さぬ』」。死刑執行報道で勇名をはせた市川美亜子の署名入り。
『読売』 一面左上に六段カラー写真付きと大きな扱い。一面は51行だが社会面に続きがあって計107行。一面の見出しは「最高裁長官『深くおわび』ハンセン病隔離法廷は『痛恨』」。無署名。
『毎日』 社会面左上。モノクロ写真。65行。見出しは「隔離法廷『痛恨の思い』 ハンセン病 最高裁長官が謝罪」島田信幸の署名入り。
『日経』 社会面。これもたった28行。モノクロ写真。見出しは「ハンセン病隔離法廷 差別助長 最高裁長官『深くお詫び』」。無署名。
『産経』 第2社会面にコラム構成。モノクロ写真。34行。見出しは「ハンセン病特別法『謝罪』に最高裁長官『重大に受け止める』」。無署名。
インコは去年、誰が何と言おうとも、また誰からも信用されていなくても、計画が良い方向に進んでいると言い続けるところで、テラダ最高裁長官とクロダ日銀総裁が完全に重なると言ったが、その評価は今年の状況にますますぴったり当てはまる。
虚言はどんどん大きくしないとウソが見抜かれます。そのことをお二人は今一番感じているかも知れません。
最高裁にとって裁判員制度と並ぶ命取りの問題「ハンセン病隔離法廷問題」について、インコは渾身の鼎談を近々ご披露する。長官の記者会見とは後先の順序になるが、楽しみにしていてほしい。
投稿:2016年5月4日
少し前になるが、東京地裁立川支部で三鷹女子高生刺殺事件の差し戻し審判決があった。
リベンジポルノの事件で、判決は3月15日。ややこしい経過をたどり今回で3度目の判決でした。
そうです。これは2013年に高校3年の女子生徒(当時18歳)が刺殺された事件です。14年、裁判員裁判で求刑は無期懲役でしたが、懲役22年が言い渡されました。裁判長は林正彦判事です。弁護側が控訴。15年、東京高裁(大島隆明裁判長)が一審判決を破棄し、差し戻しの判決を言い渡していました。
差し戻し後に女子高生のご遺族が児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑で被告人を告訴しましたね。
そのとおりです。これを受けて検察は同法違反などで被告人を追起訴。今回差し戻し審の裁判員裁判は殺人罪と児童買春・児童ポルノ禁止法違反を理由に以前と同様懲役22年の判決を言い渡しました。今度の裁判長は菊池則明判事です。
複雑な経過をたどった裁判だったが、刑事裁判の原則をねじ曲げ、その是正もつじつま合わせに終始した。これは裁判員裁判の異様さを浮き彫りにした事件だったと言えるだろう。差し戻し判決に弁護側は再び控訴したが、今日はこの裁判を考えてみたい。
わかりました。それではもう少し詳しく事件の説明をします。被告人は別れ話を告げられた交際相手の女子生徒に恨みを抱いて生徒の自宅に侵入し、首などを刺して殺害したとされています。そしてその時期に女子生徒の画像をネットに流したのでした。これはいわゆるリベンジポルノ事件でもあります。
被告人と女子生徒は同い年だったんですね。
旧裁判の刑は懲役22年でした。起訴されていないリベンジポルノに触れて被告人の責任は重大だと裁判所が明言したため、そういう事実を量刑判断に加えるのは刑事裁判のルールを根本から踏み破るものであることなどを理由として弁護側が控訴しました。
それは完全にルール違反。法律家の判断として控訴するのは当然のことだ。
東京高裁の大島隆明裁判長は、「起訴されていない名誉毀損罪を実質的に処罰する趣旨で量刑判断をした疑いがある」として、一審裁判のやり直しを命じました。窮地に追い込まれた検察は高裁の判断を争わず、立川支部のやり直し裁判が始まったのでした。
すべては法律家の判断として当り前過ぎるくらい当たり前のことだ。立川支部の裁判官は法律家ではないのかという話になる。
悪いやつなんだから起訴されていようがいまいが「犯したらしい事件は犯した事件と同じ」という理屈で旧裁判の裁判官たちは走ったんでしょうね。
そういうことになる。もう一度言うが、この迷裁判長の名前は林正彦。司法研修所32期と言えば裁判官経験36年のベテラン裁判官で、今は山形地家裁所長だ。ヒヨコ君、この際、なっがく覚えておけよ。
忘れません。リメンバー・ハヤシです。ところで、リベンジポルノの犯罪事実を検察は見逃していたんですか。
いや、そうではない。ご遺族が故人の名誉に関わるのでこのことは事件にしたくないと警察に申し入れていたのだ。犯罪事実は厳密な証拠によって認定しなければいけない。そのことを「厳格な証明」という。情状に利用するだけだからよいという理屈はない。3人の裁判官がそろってこの大原則を忘れていたはずはないから、敢えて無視したということになるだろう。
「犯したらしい事件は犯した事件と同じ」と悪性判断の結論を急ぐ裁判員たちを説得しなかったというか、押さえられなかったのでしょうね。
東京高裁でそういう裁判はダメだっていうことになり、破棄差し戻しの結果、立川支部が裁判員裁判をやり直すことになったと。
そう、検察は、児童ポルノ禁止法違反で告訴してくれと今回は強くご遺族に働きかけ、実際にご遺族は告訴をした。「さぁ今度は被告人の悪質さを正面から判決に反映させてよくなったでしょ」っていうことになった。
そんなことはない。弁護人は公訴権を濫用するものだとして公訴棄却を求めた。
公訴棄却を求めるというのは、実体判断に入る前に検察の請求を門前払いしてほしいということですよね。
で、裁判所はそれを認めたのですか。
認めなかったね。「遺族の意向は考慮されてしかるべき。追起訴が無効とは言えない」と言った。問題はご遺族の意向がどうかという問題とは別のことだ。裁判所は問題の理解がまるでできていなかった。
弁護人の考え方はどういうことだったんですか。
今回の審理に先立って追起訴が行われたので、差し戻し審に新事件が登場することになった。差し戻し審はあくまで破棄判決を判断の対象とするものだ。それなのに差し戻し事件と追起訴事件を一緒に審理するのは裁判の進め方の基本を誤るもので、それは適正な刑事手続きを保障した憲法第31条に違反するということだった。
なるほど、それで今度は検察の求刑は旧裁判より高くなったんでしょうか。
低くなった。以前は無期懲役を求刑していたのに今度は懲役25年の求刑になったのだ。
何ですって。殺人だけの時よりも殺人+児童ポルノ禁止法違反の方が刑事責任は重くなるんじゃないんてすか。
犯したとされる犯罪の刑種も数も増えたのに求刑が下がった。このことで旧裁判の審理がリベンジポルノの責任論議を含んでいたことは明らかになったが、やっぱりおかしい。検察としてはせいぜい求刑を同じにすべきところだっただろう。下げてしまったたのは以前の求刑に根本的な間違いがあったということを意味する。もはや理解不能だね。
検察と裁判所が一体になって刑事裁判を混乱させたことについて、釈明もお詫びもありませんでしたね。
ひどいじゃないですか。ご遺族も被告人も検察の対応や裁判所の間違った訴訟指揮に翻弄されたことになりませんか。
そう、翻弄するものだ。起訴されていない事件を起訴されているのと同視した旧裁判は裁判員迎合の「感情裁判」の典型だ。高裁は、起訴しなかった事件を検討の対象から外して量刑判断をせよという趣旨で旧裁判を破棄したのだろう。ところが検察はあらためてご遺族に告訴をさせ、差し戻し審の審理に新事件を挿入した。しかし求刑は以前より下げた。新裁判の裁判長は、またまた裁判手続の厳格性を踏み外す裁判を容認してつぎはぎ模様の「一体裁判」もありとし、そして判決の量刑は以前と同じにした。
弁護側が控訴したのもよくわかります。
メディアの姿勢も見ておきましょう。『読売』(3月16日)では、記者の渡辺星太さんが次のように解説しています。「今回の判決は、『被害者の全てを奪い、徹底的におとしめた』と厳しく非難したが、結局、量刑は変わらなかった。娘を奪われた両親が司法に翻弄され、失望させられる結果になった感は否めない。刑事裁判が証拠に基づき、起訴事実についてのみ審理されるのは大原則だ。被害者の意向をくみつつ、適切な量刑を導くために、公判はどうあるべきか。検察側、裁判所側双方は今回の問題点を検証すべきだ」。
裁判員裁判の中で裁判所は奈落に向かって爆走しているという印象を受けますね。
そのとおりだ。判決に対して被告人もご遺族も不服を明らかにした。制度はどうしようもないところにきている。インコは今日の表題を「つじつま合わせの醜悪」としたが、本当のことを言うと、つじつま合わせにもなっていないということが今日の主題だ。そのことを最後に言っておきたい。
投稿:2016年5月1日